完治するまで、鍛錬へと抜け出さないよう見張っていて欲しいと胡蝶様に申しつけられた方は鬼殺隊を支える柱の一人、炎柱煉獄さんだった。
負傷して帰ってきた彼は命に別状はないものの、昨夜隠から運ばれてきてからずっと寝たきりで起きる気配は無い。
起こさないよう気を付けながら額にあてていた綿布を取り替える。血はもう止まっていて、治りの早さには柱であることを目の当たりにさせられる。
炎柱様に普段からお会いするということはあまりない。それでも、たまに胡蝶様に用事があって蝶屋敷に出入りする時に見せていた凜とした風貌は感じさせず、今は年相応なあどけない寝顔を見せていて、なんだか不思議な感覚だった。
じ、と静かに寝息を立てるその様子を見守りながら、無意識に炎柱様の頬へと手が伸びる。そっと触れた肌は温かみを帯びている。
「……む、」
その温もりに浸っていると、睫毛がぴくりと動いて慌てて手を離した。起こさないように気を付けなければいけなかったのに、私の手で起こしてしまった。
瞼を上げた炎柱様の紅い瞳が私を捉え、ほんの少し緊張する。
「申し訳ございません。起こしてしまい」
「……ああ、君の手が心地良かった」
炎柱は明朗快活で、大らかな人だ。蝶屋敷に訪れる隠から聞く彼の印象はそうだったのだけれど、穏やかな笑顔を見せた彼に周りが知らない一面を垣間見ることができたような気がして思わず瞬きを繰り返す。
柔らかいその表情に緊張の糸が解け、自然と私も頬が緩んだ。
「さあ、稽古だ!」
「あ、いけません!三日は安静にと胡蝶様が」
『あの人は起きた途端、寝台から飛び出します』と、胡蝶様の仰っていた通りだった。勢いよく上体を起こした炎柱様にお身体には触れないように慌てて両手で制す。見張っていて欲しいとは申し付けられているけど、強引に鍛錬へと励んでしまうようであれば私に止める術はない。止められるのだろうかと一抹の不安が脳裏を過ったけれど、意外にも炎柱様は私に振り向き寝台から降りることを引き止めることができた。
僅かに開いた窓から涼風が吹き皎然な髪が横へ流れる。
「俺がここを抜け出せば、君が胡蝶に叱りつけられるのか?」
「……恐らく」
「そうか。ならゆっくりさせて貰おう」
拍子抜けだった。今にも隊服へと着替え竹刀を持ち生き生きとしながら鍛錬に励んでしまうのかと思っていたから。
起こしていた身体を再び寝台へと預け、炎柱様は瞳を閉じる。その一連の様子を追うようにまじまじと見た後、不本意ながらくすりと笑みが溢れてしまった。その声に気付いた炎柱様は私をじ、と見つめてから、時間があるなら話相手になって欲しい、と穏やかな口調で言い放った。
それが、煉獄さんとの始まりだった。
変わった方、という印象は一緒に過ごしていく内に、次第にいい方へと変化していった。否、いい方、なのかはわからない。
特に怪我をしているわけではないけれど、煉獄さんが蝶屋敷へと訪れることは頻繁にあった。土産がある、と、勿論私にだけではなく蝶屋敷のみんなへの菓子折りだけれど、もしかしたら私に会いに来てくださっているのかな、と思うほどには良くしてくださっていた。
だから、ここのところずっと彼のことが頭から離れない。今、何をしているのだろうか、怪我はされていないだろうか、食事はしっかりとられているのだろうかと、会えない時はいつも煉獄さんのことで頭がいっぱいになっている。
好きな食べ物は教えていただいた。それからご趣味も。私も同じように好きな食べ物や花の種類を伝えたりと、お互いのことを少しずつ知っていった。
他には何か聞きたいことはあるか、と煉獄さんに尋ねられた時、『好きな女性はいますか』なんて、聞こうとしてしまった自分を戒めた。けれど、一度気になってしまえばそれが私の頭から消え去ることはなかった。
「溢れてますよ」
「っ!」
ぼんやりとしながら、お屋敷の廊下の花瓶へと水を注いでいると聞こえた声に我に返った。ぼたぼたと花瓶から水が溢れ廊下の木の板を濡らしている。
「も、申し訳ございません」
「珍しいですね。考え事ですか?」
あからさまに様子が可笑しい私に胡蝶様が首を傾げる。
胡蝶様は柱であるから、私なんかよりもずっと煉獄さんとの付き合いはあるのだろう。私が知らないことを、知っていたりするのだろうか。
でも、流石にそんなことは聞けない。恋路にうつつを抜かして屋敷での仕事を円滑に進められないなんて、何とも情けないことだ。
「ああ、煉獄さんのことですか」
「!」
「あら、もしかして隠してるつもりでした?」
「えっと、その、」
「バレバレですよ」
にこりと悪びれもない、清々しい笑顔の胡蝶様に顔から火が出そうになる。
煉獄さんのことが好きだという自分の気持ちは明白だった。
けれど、そんなに私はわかりやすかっただろうか。恥ずかしさに唇を噛み締め足元へ視線を落とす。
「でも、そういえば」
「?」
「お館様が、煉獄さんに縁談を勧めているという話を聞いたような」
胡蝶様のその言葉は、手にしていた水差しが真下へと落下し廊下を浸してしまうほど、私には愕然とする話だった。
以降の、煉獄さん次第なので関係ないかとは思いますが、と付け足した胡蝶様の言葉は頭には入ってこず、放心状態となりながら曖昧に返事をして廊下を片付けた。
縁談、それもそうだ。確か炎柱は代々鬼殺の家系で、跡継ぎも考えなくてはいけない。煉獄さんには継子がいない。そういう観点からしても不思議ではない話だった。
「さん、炎柱様と良い雰囲気なんでしょう?」
だから、蝶屋敷へと訪れる隠の女性たちとのこういう話に愉しむことはできなかった。
誰もいない療養室で寝台に敷布を敷いている中で唐突に話を振られ手が止まる。
「そんなことないですよ」
「あら、そうなの?てっきり炎柱様が好きなのかと」
「い、いえ。お慕いはしてますが、そういうのではありません」
勿論本当は、そういう意味での“お慕い”ではあるのだけれど。
でも、縁談を勧められているという彼に私の気持ちを誰かから聞いてしまえば、きっと困らせてしまう。
この気持ちはそっと胸の内に鍵をかけて、大切に閉じ込めて置く。それで私はいいと思っていた。それが、最善であると思っていた。
それなのにまさか、煉獄さんの方から私に想いを告げられるとは思ってもみなかった。
真っ直ぐと熱い瞳で私を捉え、目が離せない。私も、と頷く私に煉獄さんは優しく手を包み込んだ。嬉しさのあまり震えてしまっていた手に温かさが伝わる。
「……あ、あの」
幾らか時間も忘れてお互いを見つめ合った後、ふと先日の自分の発言を思い出した。
お慕いはしているけれど、そういうのではないとハッキリと口にしてしまったこと。彼女たちに、今しがた煉獄さんと想いを通じ合わせたことを知られてしまっては『本当は好きではないのでしょう』と考えに至り、その話が広がり煉獄さんの耳にも届いてしまうかもしれない。嘘でもそんなことを声に出してしまったことは、煉獄さんには知られたくはない。
「しばらく、人には言わないで頂けないでしょうか」
「…そうだな。落ち着くまでは公言しないようにしよう」
まず、自らの口で隠の彼女たちへこの事実を伝えなければならない。
理由を聞かれてしまったら何と話せばいいかと心苦しくなり、躊躇いがちに伝えたけれど深くは問い質されなかった。
煉獄さんが私の気持ちを汲んでくれたからには早くあの人たちへ伝えたいのに、隠が蝶屋敷へ訪れる時は重症の隊士が運ばれてくる時が殆どだ。だから周りに公言できない日が続き、けれどもいつもと変わらず蝶屋敷へと足を運んでくれて、名前を呼ばれ、誰もいない蝶が舞う静かなお庭の縁側で口付けをされては、煉獄さんへの愛は深まっていくばかりでもどかしさを覚えていた。
「そうだ、君が好きだと話していた花の花言葉を調べた」
唇が離れ瞳をそっと開き、目と鼻の先で優しい眼差しを向ける煉獄さんへ胸を熱くさせていると、煉獄さんは思い出したように話し始めた。
「『謙虚』『謙遜』」
「……」
「君に似合う」
煉獄さんに好きだと話した花は、金木犀だった。あの頃はまだその時期ではなかったけど、最近は町に出る途中でも見るようになっていた。それで、思い出してくれたのだろうか。
向けられる笑顔に、頬が染まっていってしまうのを感じていた。
金木犀の花言葉なら、私にはきっと、『陶酔』の方が合っている。あなたのことしか考えられなくて、酔いしれている。
「」
名前を呼ばれ、骨ばった手が私の頬に触れる。やんわりとそちらを向かされ、もう一度その唇が降ってくることに、その温かさに浸っていた。
こんなにも私はこの人でいっぱいなのに。早く、早く胸を張ってこの人と恋仲であることを口にしたい。愛してくれているのがわかるから、尚更。
「え、炎柱様と?」
蝶屋敷へと隊士が運ばれてきた日、手当も無事に終えて落ち着いてきた頃、漸く私が嘘を吐いてしまった彼女たちへと真実を打ち明けることができた。
胸に手を当てながら話せば、特に驚く素振りは見せずに『何だ、やっぱりそうだったんじゃない』と恐れながら祝福されてしまった。
やっと本当のことを伝えられたことに心の中の蟠りも消え、足枷のような重さもなくなった。
煉獄さんも、鴉からきた文によると任務も無事に終わりもうそろそろ帰ってくるはず。
「ではさん、朝食を運んで貰えますか?」
「あ、はい!」
アオイちゃんと運ばれてきた隊士の食事を設えて、御膳に栄養が考えられた彩り豊かな料理が並ぶ。
ほわほわと煉獄さんに会えることにうつつを抜かしている場合ではないと気を改めて、厨房から出て食事を運んだ。
「朝食をお持ちしました」
「ありがとうございます!」
「美味そうだな」
もうこのお二方も随分と回復している。誰も命を落とさなくて良かったと心から安堵した。
「それだけ食欲があるようでしたら、お二人とももう直ぐ退院出来ますね」
傷も深くはなさそうで、問題なく食事をしている二人を確認してから別部屋へと向かった。
蝶屋敷に隊士が大勢いる時は、あまり良いこととは言えないのだけれど次に食事を運んだ人たちもすっかり元気になっていて、煉獄さんに会えることも合間ってか足取りは軽かった。食事の後片付けをして、洗濯物を干して、療養室の掃除をして、いつあの朗らかな笑顔を見ることができるのかと待ち遠しく思っていた。
けれど、もう太陽は真上を通り越しそうであるのに、待てども待てども煉獄さんは現れてはくれなかった。
「……?」
花瓶の水を取り替えようとした時に気付く。
この間、水を注ぎすぎてしまった花瓶に挿さった花は覚えている。けれど今そこには私の記憶上のものに一つ、見覚えのない花が飾られていた。
「帰ってきてらっしゃるのかしら……」
「あ。さーん!」
だとしたら、どうして直接お顔を合わせてくれなかったのかと、何かあったのかと一抹の不安が脳裏を過る。
今すぐにでも会いに行きたい。
そっと金木犀の花弁へと触れると、廊下の奥から声がする。最初に食事を運んだお二方だ。普通に歩けているし、本当にもう体は平気そう。
「どうされました?」
「やめとけってお前」
「聞くだけならいいだろ、聞くだけなら」
早く、煉獄さんに会いに行きたいのだけれど、話しかけられてしまった手前当たり前だが無下にはできない。平気そうに見えるけど、どこか具合が悪いのかもしれない。
けど、そういう雰囲気ではなさそうであることはなんとなく感じ取れた。
「いやーあのね、さんって恋人いないでしょ?だからさ、今度俺とお茶でもどうかなーと思って」
「……」
「どう?」
よければ、と頭を掻きながら話すその人へ、これはそういうお誘いであるのかと理解した。
ずっとひた隠しにしていたけれど、今聞かれて良かったと心底思った。もう、隠す必要もなくあの人への想いを声に出せるのだから。
「明日でも、」
「すみません。私は、煉獄さんをお慕いしていますので」
「あ~だよね……って、え、炎柱?」
「はい。では。お大事にされてくださいね」
甘い香りを漂わせていた金木犀は多分、煉獄さんが置いていったもの。
確証もないけどそう思った私は、二人へ小さく頭を下げてから、水を取り替えるのも忘れて蝶屋敷を後にした。恋は盲目だと、どこかでそんな言葉を聞いたことがある。自分には関係がないと思っていたけれど、その通りだと身を以て感じていた。
けれど、煉獄さんにお会いすることができると、浮き足立っていた私の心は穏やかではなくなった。
「血痕……」
一心不乱に炎柱邸へと息を切らして走り、目にしたもの。屋敷の入り口で乾いた地面を濡らしていたのは、血だった。
帰ってきている。帰ってきているけど、重症だったのかもしれない。心配させない為に私には会わなかったのかもしれない。そんな考えが頭の中を駆け巡る。
「!ちょうど君のところに行こうと思っていたんだ」
もし、最悪の事態になっていたら。
一刻も早く手当てをしないと、側にいないと。そう思って屋敷へと足を踏み入れようとしたところで平然かけられた声に肩を揺らした。
私に声をかけた煉獄さんはいつもの穏やかな表情を見せている。
「煉獄さん!金木犀があったのでもしやお戻りなのかと思って訪ねたのですが…怪我をされたんですか?血が…どこか痛いのですか」
「血?あぁ、ちょっと手から出ただけだ」
「家の前に血痕があったので、何事かと驚きました」
強がっているだけなのかもしれないと、彼に駆け寄り体に傷がないか確かめた。
心配する私に煉獄さんは私を安心させるように手の平を見せる。もう止まっているようではあるけど、そこからは血の痕がくっきりと残っていた。
「大したことない。すまない心配させて」
「大事に、してください。どんな小さな怪我でも煉獄さんが傷つくのは嫌なんです」
大事には至っていなかったけど、小さな傷くらい平気だと自分の身を軽く傷付けてしまうのは嫌だった。
痛々しい掌を包み込む。早く、手当てがしたい。
「、恋人だと皆に言ってもいいだろうか?やはり隠し事は俺には向いていないようだ」
手当てをしたい私の気持ちとは裏腹に、煉獄さんは今まで周りへ隠していたことへの本音を打ち明ける。
私の小さな嘘で、煉獄さんを困らせてしまっていたのかもしれないと思うと心苦しさで胸がいっぱいになる。でも、先ほどもうその蟠りは消え去り、自分の想いを口にすることができたのだ。
「煉獄さん…私の都合で我慢してもらってすみませんでした。もう大丈夫です。煉獄さんの恋人だと私も胸を張って言いたいです」
煉獄さんを見上げ、その瞳に目を細めて笑う自分の姿が映った。自分でも、幸せそうだと思ってしまうほどの面持ちだった。
そんな自分に心の中で苦笑していると、煉獄さんは私が握っていた手を繋ぎ直し今歩いてきた道を私の手を引きながら戻る。
「今から御館様にお伝えに上がろう!きっと喜んでくださるだろう」
その手を私は今しがた手当てがしたいと思っていたばかりであったのに、煉獄さんの晴れやかな表情につられ驚きつつも大きく頷いてしまった。
行く先で目にした紅葉が連なる帯は、まるで私たちを祝福しているかのような、そんな幻想さえ抱いてしまうほどに澄んだ秋のことだった。