短編



「先生彼女いないって本当〜?」

オレンジの日差しが均等に配置された机の表面を撫でる三月の教室。
下校時間は過ぎて掃除当番の生徒だけが残って物静かな空間の中手を動かしていた。私が黒板を消している傍で、教室の後ろの方ではきゃぴきゃぴと見回りに来た先生を女子生徒二人が囲って冷やかすような声を上げていた。
掃除はもうほぼ終わっているから、彼女たちは掃除を投げ出しているわけでもない。ただ、煉獄先生と親しげに話している様子にもどかしい思いを胸の内に募らせていた。私はあの子たちのように自分から煉獄先生へフレンドリーに話しかけられるような勇気は持ち合わせていない。それは、ただの人見知りな性格が起因しているのもあるけれど、最大の理由は、私が煉獄先生のことが好きだからだ。

「ああ、いないぞ」
「嘘だ絶対いるー!いないわけない!」

煉獄先生のことが嫌いな生徒はこの学校に絶対いない。それほどみんなからの信頼は厚いしクラス替えの時なんて、自分が誰と同じになるかということよりも担任の先生は煉獄先生であるかどうか、が重要視されていたりもする位には人気だ。
私が煉獄先生の受け持つクラスの生徒であったのは、一年生の時だけ。入学早々に一番前の席で憂鬱に感じている中、ガラッと扉が開いてその音に目を向ければ、一瞬だけ時が止まったような妙な感じがしたのを覚えている。多分、一目惚れなのだ。
何か恋に落ちるようなことを私にしたわけでもないのに、どくどくと胸の高鳴りが抑えられなかった。

「じゃあ彼女候補は?候補!三人くらいいるの?」

私ももう掃除は終わっているけど、あの子たちの会話が聞きたくてこうして念入りに掃除をしているフリをしてしまっている。
二年、三年と煉獄先生は担任ではなくなってしまったけれど、私のようなあまり話が得意ではない生徒にも真摯に向き合ってくれていた。テストの点が少し下がってしまった時はわざわざ体調が悪かったのかとか、苦手なところだったのかとか職員室へ私を呼んで心配してくれていた。それはきっと、私以外の生徒にも当然のようにしていることなのだろうけど。
だから、彼女候補が三人くらいいる、なんて冗談交じりに話す彼女の言葉に、ああ、いそうだな、なんて思いながらすでに綺麗になっている上の方へ黒板消しを滑らせた。

「そんなにいるわけないだろう」
「そんなに!?えっじゃあ彼女っぽい人いるってこと!?」
「いるかもしれないな」

バフ、ガタッ……と、頭に柔らかい衝撃が走った後、何かが落ちる音がした。その音にキャー、と声を上げていた彼女たちも煉獄先生も話をやめて音がした方へと顔を向けた。音を立てたのは、私だ。
煉獄先生の曖昧な言葉に狼狽えて、手から黒板消しが滑り落ちた。白い粉が目の前に舞って息苦しくなりゴホゴホと気管を守るように咳が出る。

大丈夫!?」
「だっ大丈夫」
「タオルいる?」
「ううん、ありがとう。鏡見てくる……」

間抜けな自分が究極に恥ずかしくなった。もう赤っ恥だ。
こんなみっともないところ、煉獄先生に見られたくはなかった。先生は勿論、生徒にそういう感情を抱いていないことは理解している。でも私は、少なからず大人に見られたいという浅ましい欲はあった。彼女になりたいとか、特別な存在になろうと思っているわけでもないけれど、せめて、子供扱いはされないような、そんな存在ではいたかった。卒業をした後でも。
連絡先は教えてくれていたから、たまに何か理由をつけて会いに行ったりはしたかった。一言二言話して終わり、なことは目に見えているけれど。
時系列や登場人物が多すぎてわかりにくいところがあって、と日本史のテストの点が落ちた時、『他の生徒には内緒だぞ』って口の端を上げながら教えてくれた連絡先はきっと、これも他の生徒にも同じようなことをしているのだろう。たまに夜、電話をかけてくれたりもしたけど私だけが特別だなんてそんな都合のいいことは思っていない。
鏡に映る自分は学園三大美女の足元にも及ばない。髪に白い粉が紛れて随分と見窄らしかった。煉獄先生の話していた彼女っぽい人、というのは本当だとしたら、どういう人なのだろう。でも、きっと髪は艶やかで煉獄先生のように万人から愛される、その人がいるだけで周りも温かい雰囲気になってしまう、そんな人だ。

「もっと早く生まれたかったな……」
「なぜそう思う?」
「っ先生、」

白くなった髪をなんとか治してから、教室までの廊下を俯きながら歩いていると前方から声が降ってきた。人っこ一人いないと思っていたから、独り言を聞かれてしまっていたことに羞恥が募る。
顔を上げて立ち止まった私に先生は歩み寄る。

「大丈夫か?」
「はい……、あれ、いない……」
「ああ、掃除はもう終えているようだったから帰らせた」

廊下から覗いた教室にはもう誰もいなかった。
二人きりになったことに運の良さを感じながらも、やはり今日は二度醜態を晒しているのでいい気にはなれなかった。
そろそろ最終下校の時間だから、先生は私も校舎から出るのを待っているのだろう。それはわかってはいても、こうして二人きりでいられる時間なんて滅多にないことだから、わざとのろのろと教室へ入り帰り支度を始めた。

「先生」
「なんだ?」

机からいつも持って帰ってはいない筆記用具を取り出し鞄にしまい込む。先生は教室の入り口で腕を組み壁にもたれながらその私の様子をじ、と見ていた。視線が少し痛い。

「先生は、どんな人が好きなんですか……?」

生徒からされるプライベートに踏み込んだ質問なんて、誤魔化すに決まっている。わかっていても聞けずにはいられなかった。
彼女だって、もう本当はいるのかもしれない。生徒に茶々入れられたくなくていないことにしている、なんて先生たちは大勢いると思う。鞄のファスナーを閉めて、恐る恐る先生へと視線を向けた。
私の問いかけに先生は瞬きを繰り返した後、柔らかく笑ってみせた。

「俺が好きな人間は、ずっと変わらない」

好きな人のタイプを訪ねた筈が、誰かを思って自然と作り出されたその表情に、とっくの前から私の想いは散っていたのだと実感させられた。あわよくば、なんて考えはなかったにしろ、現実を突き付けられた気がした。私が入り込める隙なんて1ミリもない。それを見て、卒業後に会いにいこうと思っていた計らいも改めた。

「お願いがあるんですけど」

鞄を肩にかけながら、先生へ身体を向ける。
私の思いは、門出の日と一緒にさよならをしよう。そう心に留めた。





ブレザーのポケットに可愛らしいお花が飾られるその日、クラスのみんなや部活の子たち、先生たちともそこら中で写真を撮ったりと、卒業式の余韻に浸る時間もほとぼりが冷めてきた。
そろそろみんなでご飯に行こう、と校舎を後にし歩道を歩く途中、忘れ物をした、とその輪から抜けてもぬけの殻となった教室へと戻った。

「先生」

荷物もアルバムくらいしかない今日、忘れ物なんてしていない。
物、というよりは言い残したことがあった。
教室の扉を開けると、“祝!卒業”と達筆な字で書かれた文字と桜が舞っている絵を柔和な表情で見つめていた煉獄先生と目が合う。

「お忙しいのに、ありがとうございます」
「君からお願いされたら断れるわけがない」

卒業式の後、少しだけ時間をくれませんか、とあの日の放課後伝えていた。きっと、私の他にもすでに何人か、同じようなことを考えている人はいるだろうと思っていたから駄目元だった。けれども先生は快く頷いてくれて、上手く時間をずらしているのかなと脳裏に過った。
今のように、その気にさせてしまうようなことを言ってしまうから、私の他にも煉獄先生へと恋を募らせている生徒は沢山いるのだと思う。

「先生、あまりそういうの言わない方がいいと思います」
「そういうの?」
「勘違いしてしまうので……」

教卓の前にいる先生へと歩みを進め、人一人入るくらいの距離をあけて立ち止まる。
ここは、隣にいるべきである人の場所だ。

「何を勘違いするんだ?」

先生にずっと前から好きな人がいると聞いた瞬間、潔く先生の口からハッキリと告げられることで、もうこの校舎に戻ってくることも先生に会うことも二度とない未来を思い描いていた。その方が、新たな門出へと踏み出せる気もした。
どくどくと鳴り響く胸を抑えるように鞄の紐を握り締め、ゆっくりと先生を見上げる。

「私、先生のことが好きです」

成績もずば抜けていいわけではない。美女と持て囃される容姿も持ち合わせていない。性格だって陽気に先生へ話しかけられるような度胸すら持ち合わせていないような人間が、例えもう少し早く生まれたからって何かが変わるとは到底思えない。でも、私は生徒だからとそれが先生のことを諦められる理由にもなっていた。

「ああ、俺もだ」

だからここで思いを告げて、振られて、後腐れなく清々しい気持ちでこの学校を卒業しようと、そのつもりだった。
精一杯に思いを告げた私に、目の前の煉獄先生は目を細めて柔らかく微笑んだ。
一瞬、心臓がどくりと跳ねたけどこれは違う。危うく勘違いしてしまうところだった。

「違うんです、私の好きは、先生と同じ好きではないんです」
「違うのか?」
「その、私の好き、は……、先生が話していたずっと前から変わらない好きな人、と同じ好きなんです」

先生のこの返答では、勘違いしてしまう人がきっと続出してしまう。罪深い人だな、なんて妙に冷静でいれた。振られることがわかっているからだ。
自分の気持ちに区切りをつけようと思っている時の感情は、いやに晴れやかだ。
呟きながら視線を足元へと落とした私に一つ、影が降りてくる。

「驚かせるな」
「……、」
「違わないじゃないか」

そっと、骨ばった熱い手の平が私の頬に触れた。顔を上げてくれと言わんばかりに緩く持ち上げられ、紅葉色の瞳と視線が交わる。

「ずっとだ。ずっと前から、俺は、君のことが好きなんだ」

その言葉は、私にとっては悦ばしいこと以外の何者でもないはずなのに。
揺らぐことのないその瞳に、なぜだか胸が締め付けられるような感覚が襲う。片目から一筋の涙が零れたのを、杏寿郎さんの指が優しく拭った。

はなむけ