短編



雲一つない広がる青空に川底が映るほど透き通った綺麗な川。細やかに流れる水の音が心地いい。まごうことなき清々しい朝だ。
少し疲れたな、なんて、草花が多い茂る河川敷に寝っ転がった。瞼を閉じると空気を目一杯吸うと花の暖かな香りが身体中に充満していくような気がした。蝶々のようにその甘い香りを堪能した後にゆっくりと瞼を上げた。

「わっ!!」
「こんなところで何をしている」

目の前に広がる青空のはずが、私の視界を独占していたのは煉獄さんだった。慌てて上体を起こす私に煉獄さんは仁王立ちのままだ。唐突に音も無く現れるものだから心臓がどくどくと煩い。

「任務があって……」
「帰らないのか?ずっとここにいるな」
「素敵な場所だなと思って。というか、ずっと見てたんですか……?」
「ああ、見ていた」

ほんのりと口端を上げて笑いながら、煉獄さんは私の隣に腰を下ろす。つまり、私がここでのほほんと間抜けに過ごしていたのが全部見られていたというわけだ。穴があったら入りたい。
それでも、偶然出会えたことに神様に感謝した。煉獄さんもこの辺りで任務があったのだろうか。というより、恋人という間柄でもないのに煉獄さんはさらりとそんなことを口にしてしまうから、尚更浮き足立ってしまう。本当に、たぶらかすような真似はやめてほしい。本人にその気は全くないことが厄介だ。
穏やかな風が吹いて、川の向こう側を見つめる煉獄さんの髪が揺れる。

「声かけてください」
「どうするか迷っていてな」
「……煉獄さんも、迷うことがあるんですね」
「ある」

私なら、煉獄さんを見かけたら一目散に駆けて行って離れ難いとさえ思ってしまうのに。距離感がやっぱり少し寂しい。
煉獄さんは、やっぱり私のことはそういう目で見ていないのだろう。元々は師範と弟子だから至極当然だ。最終選別を受けてからは煉獄さんの元にはお世話にはなっていないけれど、こうして二人でいる時間が私にとって大好きな時間だった。
知れば知るほど、大きい存在になって、恋い焦がれてしまっていた。
ある、と、その一言には迷いのない煉獄さんの横顔に自然と笑みが溢れてしまう。

「そうだ、新作!」
「新作?」
「銀座の喫茶店に一緒に行った時、次はこれを食べに行こうって話してたじゃないですか」

珍しく一緒になった任務、藤の家からの帰路で銀座を通ったのだ。どがつくほどの田舎に住んでいた私はその都会っぷりに子供のように心躍らせていた。それを見てか、煉獄さんが少し見て回ろうかと誘ってくれて、入った喫茶店だった。

「あれもう新作じゃなくなって、定番メニューになってるらしいですけど……約束忘れちゃいました?」
「忘れるわけないだろう」
「良かった」

ただ、あの喫茶店で働くお姉さんは煉獄さんのことを狙っているように見えたからそれだけ気掛かりだ。短時間で一人の人間を堕とす煉獄さん、恐るべし。きっとまた行ったらここぞとばかりに狙われてしまいそう。しっかり私が守りに入らないといけない。
でも、その約束のおかげでこうしてまた煉獄さんと街に訪れることができるのだ。甘露寺さんが話していた、さらっと次に会う約束を漕ぎ着けるのよ、と。私もできないけど頑張るわ、と。

「…………」
「……、」

太陽は、まだ上がったばかり。銀座に赴いても喫茶店はまだ開店していないだろう。
そーっと、恐る恐る、草の上に置かれた煉獄さんの右手に手を重ねた。自分からしているわりに、緊張で手の感覚がおかしくなる。
はらわれてしまうだろうか、でも、そんなことはしないだろうか。こうやって、私は煉獄さんの優しさに甘えて、大きな懐に入り浸ってしまいそうになる。
思った通り手ははらわれる事はなく、むしろ、手の平が上を向いて指を絡ませるように繋がれた。

「……煉獄さん」

好きです、と、いつもいつも喉からでかかったところで留めてしまう。きっと、邪魔になってしまうから。同じ隊士でありながらも、煉獄さんは一段も二段も高いところにいる。もしかしたら、私の気持ちなんて筒抜けなのかもしれない。そして、こうして手を繋いで、身体を預ける私を支えてくれる理由は、優しいだけの理由ではないのかもしれない。
違ったら、都合のいい勘違いも甚だしいけれど、なんとなく煉獄さんは、『俺と君はそのような関係ではないだろう』って、しっかり言葉にする人な気がする。

「あったかい」
「寒がりだな、君は」
「寒がりで寂しがりです」

今日は暖かいはずなのに、何より煉獄さんがこうして隣にいることが私にとっては何よりも暖かくて、かけがえのない時間だった。
言葉はなくてもいい。そう思っていた。そう思っていたはずなのに、心がこんなにも寂しいのは、何故だろうか。
どれほど経ったのかはわからない。ただ目を閉じて、その温もりに浸っていた。いつまででもこうしていられると思った。


「はい」
「いいのか?帰らなくて」

さっきも言っていたけど、煉獄さんは私をどこぞの子供だと思っているのだろうか。こんなにもいい雰囲気だというのに。
煉獄さんに寄り掛かっていた身体を起こし見上げると、儚げに私へ笑みを浮かばせていた。その表情に、心臓がどくりとした。繋いだ手をギュッと握り締める。

「帰らないと……ダメですか」
「それは君が決めることだな」

とは言いつつも、煉獄さんは手を離してくれないじゃないですか。なんてことは言えず。
ずっと会いたかった、煉獄さんに。どれだけ私が貴方を想っていたのか、煉獄さんはわかっているのだろうか。

「私、煉獄さんとずっと一緒にいたいです」
「ああ、俺もそう思っている」

俯いて、呟いた私に煉獄さんも頷いてくれた。
だったら、私は帰る必要もない。ずっとここで煉獄さんと一緒にいればいいのだ。
それなのに、煉獄さんだって肯定してくれているのに、どうしてか心に靄がかかっている。きっと、ここにいた方が幸せな気がするのに、何かを、大切なものを失ってしまう気がする。


──さん、今日も目を覚ましませんね


こうして何もかもを投げ出して、一緒にいることは心地が良い。心地が良いはずなのに、違和感を感じていた。覚めたくないと、胸の内でそう思っていたはずなのに。

「ずっと、一緒にいたいのに、それを願えない」
「……」
「貴方が守ってくれた命だから、起きないといけない」

ハッキリと言葉にして、自分がしなければいけないことに改めて気付かされた。迷っていたのだ、私は。もういいやと全てを諦めて煉獄さんに会いたい自分と、本当にそれが正しい生き方なのだろうかと自問していた自分で。
繋がれた手をそっと自分から離し、その場に立ち上がった。そんな私を見て、煉獄さんは優しく笑う。

「立てるじゃないか、自分で」
「気付かせてくれたのは煉獄さんです」
「なら、迷っていないで早く声をかければ良かったな」
「本当ですよ」

離したくないと、そう思ってくれていたのならそれもこの上ない幸せだけれど。困ったように眉を下げながら、煉獄さんも腰を上げる。

「約束、守れなくてすまないな」
「ああ、喫茶店のお姉さんが要注意だったので、それはそれで良いんです」
「?なら良かった」
「その代わりに、別の約束をお願いしても良いですか?」

小首をかしげる煉獄さん。自分に向けられる好意に疎いらしい。
一度離した手、小指を煉獄さんへと向けた。

「シワシワのお婆ちゃんになった私のことも、迎えに来てくれますか」

煉獄さんの分まで、目一杯に生き抜いて見せるから、だから、私が私のすべき事を全うした時は、隣を歩くのに見窄らしい姿になってしまっても迎えに来て欲しい。
煉獄さんの瞳に映る私の頬に、一筋涙が伝った。それから、私の小指に煉獄さんの指が絡む。

「ああ、待ってる」

穏やかに笑うその表情を最後に、薄っすらと周りの景色も白み、意識も遠退いていく。否、意識は遠退いていたのではなく、戻ったのだ。
ぱちりと瞼を上げた先は青い空も花畑も川もない。茶色い、所々にシミのある天井だ。
ゆっくり身体を起こすと、どれほど寝たきりだったのだろうか、節々に痛みが走る。寝台の脇には花瓶に活けられたばかりだろうか、艶やかな花が甘い香りを漂わせる。
ずっと良い香りがしていたのは、このせいだろうかと苦笑した。

「っ、……」

カーテンが揺れて木洩れ日が差し込む部屋、寝台から降りようとしたけど、ずっと動かしていなかった足のお陰でふらついた。せっかくのお花を倒してしまう、とヒヤリとする。けれど、誰かに支えられたような気がした。

「……一人で立てるって、言ったのは煉獄さんなのに」

早速心配させてしまっただろうか。
反射で避けられただけかもしれないけれど。でも左手だけ、温もりが残っているのも気のせいにはしたくないから、今回限り特別ということにしよう。
勝手に決めつけて、ギュッと拳を握りしめてから水の流れる音のする厨房へと顔を覗かせた。

「今日の朝御飯?」
「はい、まだ少しかかりそ、…………」
「おはよう」
「!?!!さん!?」

割烹着を身に纏った後ろ姿に声をかければ、間が空いた素っ頓狂な声を上げたアオイちゃんに泣き付かれてしまった。
お陰様で、蝶屋敷にいたみんなが昏睡状態だった私の目覚めに気付き囲われてしまった。
煩いくらいの賑やかさに涙が出てきそう。
ああ、生きていて良かったなあ、と、厨房から見える青空に思い馳せた。

いつかの約束