短編



物心ついた時から、裏の家に住む彼は刀を握っていた。よく庭から彼のお父さんと稽古をしている声が聞こえてきて、男の子は剣を持つものなのだと特に疑問に思いはしなかった。けれど私が学校に通い始めるとなった時期、縁側に座りお菓子を食べながら杏寿郎へ楽しみだね、なんて話せば『俺は学校には行かない!』と溌剌と告げられた。学校へ行かない人もいるのだと、少し寂しかったけれどそこでも特に疑問には思わなかった。
けれど、学校へ行っていつも竹刀を持つ幼馴染がいると友達に話せば、お金がない家でもないのに学校に来ないのはおかしいよ、と言われ、初めてそこで私は煉獄家に疑問を持った。
今思えば、小さい私に話しても伝わらないし怖がらせてしまうと思ったのだろう。学校に行き始めてある程度教養が身についてきた頃に母親に聞けば、煉獄さんのお家は代々鬼狩りをしている家系なのよ、と穏やかに伝えられた。

「杏寿郎」

久しぶりに見たその後ろ姿は、前に見たときよりもまた背中が大きくなっている気がした。小さい頃は私の方が身長が高かったのに、今や頭二つ分くらいは目線が上になっていた。
杏寿郎くん帰ってきてるわよ、とお母さんに伝えられ菓子折りを持ってお邪魔すれば、千寿郎が庭にいますよ、と教えてくれた。
身体はどんどん大きくなって、幼かった顔立ちも凛々しく整えられ変わっていくのに常日頃からしていることは今日も変わらない。桜が舞っても、蝉が鳴いても、葉が赤くなっても雪が降っても、刀を手に汗を流していた。

か。学校へは行かないのか?」
「学校はもう出たよ」
「そうだったか!」

背中を向けていた杏寿郎が私へと振り返る。やはり大きくなっているのは気のせいではないらしい。知らない内に、知らない人になっていくようで心に穴が空いた感覚があった。
口端を上げる杏寿郎の胸元へと視線を落とす。
今身に纏っているこの黒い服を着るようになってから、杏寿郎は私を遠ざけるようになった。怪我をして帰ってくることも多くなったし、私に心配をかけないよう避けるような真似をしていたのだろうと察していた。ただ、それが、お前とは住む世界が違うとでも示されているようで、私は寂しかった。

「どうした?何か用事があったんだろう」
「用事がないと来てはいけないの?」
「……そういうことではないが、」
「どうしてそこまでするの?」

目の前の黒く分厚い生地をギュ、と摘んだ。重たそうな衣服。この服が擦り切れているのは何度も見たことがある。こんな、そう簡単には破けたりはしなそうな生地が何箇所も切り裂かれていた。それだけでも、鴉が鳴いた時に杏寿郎が何と戦っているのかがそれなりに想像がついた。実際に目にしたことはないけれど、禍々しいものなのだろうと。

「そこまで?」
「どうして杏寿郎が戦うの?」

代々鬼狩りの家系、と話していた。それは、杏寿郎が戦う理由になるのだろうか。杏寿郎は、何の為に戦っているのだろうか。私にはわからなかった。鬼に大切な人を殺されたわけでもないのに、どうして自分の身を呈してまで鬼と対峙できるのかと、不思議でたまらなかったし、今までもずっと、そんなことやめてほしいと思っていた。
小さく呟いた私に杏寿郎は私の手を上から包み込む。

「強く生まれたからだ。やらなければならない。助けられなかった命は沢山ある」
「……杏寿郎がやらなくてもいいじゃない」
「守りたいんだ」

世の為人の為、とは、わかっている。私が何と言おうと杏寿郎が鬼殺をやめないことくらい、わかりきっていた。自分の為に生きてほしいと話したところで、きっとこの人はそれが自分の為でもある、なんて言ってしまう。どこまでも優しくて温かい人だから、怖い。


「……」
「千寿郎から聞いた。縁談を断ったと」
「……うん」
「なぜだ?相手は申し分のない人間だったらしいが」

緩やかに吹いた風が足元の砂を散らす。私の胸の中も、ずっと乾いたままだ。
服を放さない私の手を杏寿郎もずっと包み込んだまま。

「幸せになれないと思ったから」
「……そうか。幸せになれる相手が見つかるといいな」

見上げた先の杏寿郎は、眉を下げて至極穏やかな表情をしていた。聞いてほしかった。どうしたら幸せになるのかって。でも、私が何と答えるかわかっているからこの人は聞かないのだ。

「南南東ーーーッ!南南東ーーッ!急ゲ!救援ーーッ!!」
、すまない」
「…………」

私の意思なんて当たり前に尊重されない。私は鬼殺隊に属してもいないただの幼馴染であって、一緒に戦えるわけではない。
帰ってきたばかりなのに、また行ってしまうのかと、無事で帰ってこれる保証もないそこへ向かうことにすんなり杏寿郎を放せるわけがなかった。



温かく、そして重々しく発せられた一声。杏寿郎の逆の手が私の頬を包み込む。薄く雲が広がる空を飛んでいる鴉から杏寿郎へと視線を向け瞳が交わる。

「行ってくる」
「…………」
「しっかり食事を摂るんだぞ」
「摂れないのは、……」
「……」
「行ってらっしゃい」

杏寿郎のせいだよ、と、私のような人間が口にできるわけでもなく。思うことは沢山あるのに、あまりにも杏寿郎がまっすぐだから、私には深く問い質すことなんてできなかった。
そっと服から手を放すと杏寿郎の手もゆっくり放れる。再び背を向けたその後ろ姿が寂しく見えたのは、私の気持ちのせいだろうか。手を伸ばして、引き止めたかった。でもきっと、私に彼の歩みを止めることなどできない。
けれど、もう限界だった。ボロボロになって帰って来た杏寿郎にこれ以上黙ってはいられない。鬼殺隊をやめてほしい私と、杏寿郎の意志を尊重したい私がせめぎ合っていた。


「!」
「入るぞ……、開けなさい」

怪我をして帰って来た杏寿郎へとお見舞いに行った時、目を覚まさない杏寿郎の傍に置いてあった重々しい刀。手にしてみた時、思っていたよりもずっと重くて目を見張った。いつもこんな物々しいものを持って、命を掛けて戦っているのかと思えば胸の中が抉られた。
そのまま、刀を持ち出してしまったのは衝動だった。いつしか杏寿郎は、こんなことをするのは私くらいしかいないと私の元まで来るとは思っていたけれど、一日足らずで目を覚まして取り戻しにくるとは思っていなかった。
名前を呼ばれた瞬間、部屋の襖につっかえ棒を当て込んだ。

、聞いてるか」
「もう杏寿郎が傷つくの、私は見たくないよ」
「ああ、見ない方がいい」

まただ。こうして杏寿郎は、自分の世界から私を引き離そうとする。私がいくらこっちへ来てほしいと遠回しに訴えたところで、その信念は揺るがない。
襖の向こうのあなたは今、どんな表情をしているだろうか。

「もしものことがあったら、嫌だよ」

額を襖にあて限りなく小さく呟いた。
ずっと、受け入れることができなかった。けれど、杏寿郎と違う道を歩みたくない。分岐点で私はいつまでも杏寿郎の背中を追っている。私は別の道を歩むことはなく、ずっとその分岐点で立ち竦んでいる。紛れもなく、どうしようもない私の我儘なのだ。

「俺も、もう大切な人を失いたくない」

杏寿郎は、大切な人を失った哀しさを知っている。私は、まだ知らない。知りたいとも思わない。知りたくない。
杏寿郎の背中を押してしまえば、知ってしまう気がした。好きだとか、恋だとか。そういう言葉では表しきれない思いが胸の中だけでは足りないほどに溢れてる。

「いざという時に、為す術もなく立ち尽くしたまま命を落としたくはない」
「……自分から、そこへ行かなくても」
「ああ、それが一番安全であることに違いはない。……だが、それでいいのだろうか」

いつもいつも意気揚々と話す声色がかなり落ち着いている。私を諭すようにも聞こえるけれど、それだけではないようにも聞こえた。私だけではなく、自身にも言い聞かせているように。

「俺は鬼を斬ることができる。それであるはずが、助けられる人を助けないでいいのだろうか」
「…………」

頷くことなんて、できやしなかった。たとえそれで命を落とそうとも、自分のやるべきことだと受け入れている。いつまでもいつまでも私は当事者でもないくせに受け入れることはできなかったのに。


「……約束して」
「ああ、なんだ?」

頬に一筋、涙が伝う。
強くて、優しい人だから、自分のことよりも他人のことばかり考える。だから私があなたの分まで、あなたのことを考えていたい。

「杏寿郎も、幸せになるって」

人の数だけ人の幸せがある。その数に、自分のことも入れてほしい。自分の幸せはなんなのか、心に留めてほしい。
こんな思いですら、私の我儘で彼にとっては邪魔になってしまうだろうか。

「俺はもう幸せだぞ」
「……もっとだよ」
「なら、出てきてくれないか」

無理やり、強引に力づくでも開けられるものだろうに、ずるい人だと思った。
頬に伝った涙を手で拭い、一度深く呼吸を繰り返してからつっかえ棒を外して襖に手を掛けそっと開けた。
頭に包帯を巻いているその姿を見て、止めた涙が込み上げてくるのを堪えた。そんな私をわかっているかのように、杏寿郎は優しく私の頭を撫でる。涙が溢れてくる手前で、杏寿郎へと腕を回し分厚い身体を抱き締めた。

「君は、俺の前からいなくならないでほしい」
「……私は死なないよ」
「そうじゃない」

少し早く感じる胸の鼓動を聞いている私に、杏寿郎も腕を回した。
私も、ずっと前から受け入れていたら、同じ道を歩んでいたら、こうしてもっと早く本音が聞けたのだろう。

「誰にも、何にも渡したくはなかった」

彼の幸せに私という一人の人間が入っているのならば、私にとっても、たとえ何があろうともそれは確かに幸せなことだった。

道の先