短編



太陽が沈んですぐだった。鎹鴉が鳴いて向かった先ではお祭りが開かれているような人がごった返している町で、その外れの神社に休憩がてら入ってきた人たちを襲っている鬼の討伐だった。
幸い、鴉が気付くのが早くて間一髪のところで町の人を助けることもでき、その後の指令も入らず町へ降りる道を歩いていた。

「さっき、よく反応できていたな」
「ありがとうございます……!」

前を歩く師範が私に顔だけ振り返りながら穏やかにそう話した。戦っている時の威圧はまるで感じさせない笑顔は私の心を落ち着かせる。
遠くの方で、ぽんぽんと盆踊りでもしているのだろうか、太鼓の刻まれた音が風に乗って耳に鳴る。

「行きたいのか?」
「え、あ、いえいえ」

山道を歩きながら下の町で見える明かりを眺めていると、前方から声が降ってくる。思わず慌てて手を前に出し首を横に振った。ただ音が気になっただけで、決して師範とお祭りに行ってみたいとか、そういうのではない。……少しだけ、行けたらいいなとは思うけど。

「明日は早いからな、今日はすぐに戻って床に就いた方がいい」
「はい」

そんな少しの淡い期待なんて、無理なものには最初から一寸の余地も与えない。師範は私のことが好きだと、前に言ってくれたけどそれ以来、特にそれらしいことは全くしていない。そんなに日が経っているわけではないし鬼の出現が増えて単純にそれどころではない、というにもあるけれど。ていうか、何もない理由はそうであってほしい。
まさか、実はあれは一種の冗談だったとか、師範に限ってきっとそんなことはないはずだと思いたい。

言われた通り次の日は早朝から師範と鬼の仕業かもしれない、と噂の町へ向かった。遠くの町だったから鬼がいれば絶対に討伐したいところだったけど、調査の結果残念ながら熊の仕業で、役に立てることはなく手を合わせてからその現場を後にした。

「休憩しようか」

藤の家の庭を借りて、じめじめとした蒸し暑い空気の中鍛錬に励んでいれば、師範は声色を変えてそう告げた。本当に、刀を持っている時とそうではない時の差が顕著であった。
日陰になっている縁側に腰を下ろすと涼風が吹く。聞こえてくる風鈴の音に目を閉じて清涼感を味わっていた。
今日はこのまま、どこにも鬼は現れずに平和な夜が訪れてくれたらいいのだけれど、きっとそんなことはないだろう。
瞼を上げて、ぼーっと薄い雲が流れる青空を見上げていれば、ふと視線を感じた。その先へ顔を向ければ、隣に座っている師範とばちっと瞳が交わる。

「……あの」
「ん?どうした?」
「いやいや、師範こそ」

瞳が合ってから、逸らされることなくずっと見据えられているものだから口を開けば、逆に聞き返されてしまった。折角の手拭いで吹いた汗がじわじわと額に浮かんできてしまう。
何か反省点がございましたでしょうか、とおずおずと尋ねてみると、どうやら違ったようで。

「いや、つい見惚れていた」
「、」
「刀を振るうことを忘れて、こうして君だけ見ているのもいいものだな」

くしゃりと、優しく笑う師範に胸が熱くなった。いや、胸だけでなく顔も、体も。全部が熱い。
庭に植わっている木の幹で鳴いている蝉の声がもっと大きくなってほしかった。心臓の音が聞こえてしまいそうだ。

「そういう世の中に、なったらいいですね」
「なるだろう」
「はい」

どう反応したらいいのかわからなくて瞳を伏せながらそう話した。好きだと言ってくれたのは、間違いではないらしくて、そのことにひどく安心した。けれど心は落ち着かない。
戦闘に立った時のことを褒めてもらった方が落ち着くだなんて、元の生活には程遠いなと自嘲した。

「さあさ鬼狩り様、暑い中ご苦労様です。よかったらこちらで涼んでください」

そう言いながら、藤の家の奥さんが持ってきてくれたのは赤と青のシロップがかかったかき氷だった。
本当に今日は、色んな意味で暑かったからとても有り難いと思った。ありがとうございます、と何気なく受け取った青いシロップがかかったかき氷を口に含むと甘い味が口いっぱいに溶けるように広がっていく。
汗ばんでいた体が涼しくなっていく気がした。町で開催されていたお祭りにほんの少し未練があった分、隣で並んでそれらしいものを食べているだけで満足してしまいそうだった。

「懐かしいな、昔よく弟と食べていた」
「弟、あ、千寿郎くん、ですよね」
「ああ、自慢の弟だ」

今はあまり顔を合わせることも少なくなったが、と、語る師範の横顔は懐かしげだった。
確か、いつだったか聞いたことがある。弟の千寿郎くんは、日輪刀の色が変わらなかったって。代々炎柱を務める家系の中、それでも師範にとっては自慢の弟に変わりはなくて、そんな師範に私はますます想いを募らせてしまう。本当に、素敵な人だ。
時折こめかみに痛みを走らせながら食べ終わったかき氷に私も、刀を持つ前までの日常を思い出していた。お祭りにだって行っていたし、こうして夏はかき氷も食べていた。そんな日常を、なんの煩いもなく師範と過ごせたらどれだけ幸せなことだろうか。

「師範」
「どうした?」
「私、頑張ります。師範ともっと、こうしてずっと一緒にいたいので」

えへへ、とだらしない顔を浮かばせているだろう。でも、そんな日常を夢見ることくらい、許してほしい。夢でなくなることが、一番の願いだけれど。
言ったはいいものの恥ずかしくなった私は、再開しましょう、と竹刀を手に取ろうとした。けれども、唐突に顎をぐ、と掴まれ師範の方へ寄せられた。

「あ、あの」
「口を開け」

目と鼻の先にいる師範に生唾を飲んだ。もう少しで触れてしまいそうで、固まってしまったけど、まるで医者のように呟く師範に私は言われるがまま、おずおずと口を開いた。

「舌の色、変わってるな」
「…………」

そっと、口を閉じた。恥ずかしい。かき氷にかけられたシロップのせいだろう。私は青を選んだから目についてしまったらしい。あと、一瞬でもそういうことをされると思ってしまった自分が恥ずかしい。
心臓がばくばくと響いている音がうるさい。聞こえてしまいそうだ。蝉の声、もっと大きくならないだろうか。

「そっち、美味かったか?」
「はい、とても」
「そうか」

私が口を閉じたのと同時に、師範は私の顎から手を離したけれど、代わりに後頭部に手を回され、がっちりと頭が固定され近さはまるで変わらない。
ずい、とあともう数寸、というところまで顔を寄せられ、居た堪れなくなった私は大きくて吸い込まれそうな瞳から目を逸らした。

「師範、」
「ん?」
「ち、近いです」
「ああ、そうだな」

視界の隅に映る師範の口角がうっすら上がっているのが見える。私の反応を楽しんでいるようだった。せっかくいただいたかき氷で涼んだのに、私の体はまたじわじわと熱くなってきてしまう。


「…………」

囁くように、けれども低く強くそう呼ばれて、風が吹くたび鳴っていた風鈴の音も、夏を際立たせる蝉の声も、何も聞こえなくなった。
幾らか瞳を泳がせた後、その瞳の中に映る自分を捉え、ゆっくりと瞼を閉じる。鼻先に息がかかったのを感じた瞬間、唇に落とされたそれは少しだけ冷たくて、柔らかくて、熱かった。

「んっ、……」

ぎゅ、と噤んでいた私の唇をこじ開けるように侵入してきた下に歯列をなぞられ、薄っすらと口を開くと日中には相応しくない音が頭の中をこだまする。
前に、過ちを犯してしまったかもしれないと愕然としていたけど、これだけで胸がいっぱいになってしまうのだから、そういうことになった時私は一体どうなってしまうのだろうと頭を過った。
絡めとられた舌が上顎を這うといよいよ力が抜けて、されるがままだった私から漸く唇が離れる。
閉じていた瞼を上げれば、まっすぐ師範は私を見据えている。それから穏やかな笑みを零した。

「夜、何もなければ続きがしたいと思っている」
「……お願いします」
「素直だな、君は」
「お酒もしばらく飲んでませんので」

それは偉い、と頭をポンと撫でられ、今日だけ、今日一日だけでもいいからじめっとしたあつい夜を、この人の隣で明かしたいと願った。

熱帯夜の誘惑