短編



可愛げのないスタンプが一つ送られてきた。時刻は十九時五十六分。春の寒暖差というものは馬鹿にならず、私はここで薄着のまま自分の家から締め出しを食らっていなければいけないのかと思うと既に心が凍えていた。
部屋の目の前の柵に両腕を乗せ、バイク便の到着を待っていると、見覚えのある派手な髪色が目に入る。
途端、焦燥感に駆られた。違う人だったらそんなに慌てることもないのだけれど、明らかにあの人は尋ねてきそうだと、この階に上がってくる前に私が思いついたのは、ひたすらスマホを弄って話しかけてくれるなオーラを出すことだった。

「こんばんは!」

が、そんなオーラ彼には見えていないらしく、溌剌とした声がマンションに響いた。グギギ、と首を回し滑稽な笑みを浮かべる。

「こんばんは」

仕事帰りなのだろう。きっちりと着こなしているスーツ姿に、最初は普通のサラリーマンかと思っていたけどこの人、煉獄さんは学校の先生をしているらしい。わざわざ菓子折りを持って挨拶に来てくれた時に、自分のプロフィールをつらつらと話していたから覚えている。
私の煉獄さんのイメージは、よく話す人、だ。寝起きの姿でゴミ出しに行った日に出くわした時も仕事帰りの疲弊した時にコンビニでばったりした時も、元気に挨拶をしてくれた後に今日はいい天気ですねとか、仕事帰りですか、お疲れ様ですとか一言二言では終わらないのだ。だから今回も挨拶で終わらず、話が続くと思っていた。

「寒いですね!早く家に入って暖かくしましょう」
「そうですね」
「それでは!」

歯切れよく会話が終わったことに、拍子抜けだった。なぜ私が自分の家の前で黄昏ているのかを聞かれると思っていたのに、煉獄さんはそのまま隣の部屋へと鍵を開けて帰って行った。
バタン、と閉められ辺りに静けさが戻る。ふう、と肩の荷が一つ降りて楽になる。
今日別れた元彼の家に鍵と財布一式忘れて、バイク便で送って貰っている、なんて恥ずかしくて言えたものではない。まだかな、とスマホを見れば、今バイク便頼んだ、と報告が。これは私の元まで鍵と財布が送られてくるのは随分と先になりそうだ。
手を擦りながら、柵に背を向け体を預ける。日中は暖かくなるって天気予報ではうたっていたのに、と悪態を吐いてしまうくらいには私の心は荒んでいた。なんせ別れたのは浮気が原因だ。憤りが収まらない。次の彼氏は絶対にそんなことしない人がいい。誠実で真面目で、あと私の全てを肯定してくれる人。……それは逆にちょっと怪しいだろうか。

「…………」
「…………」

理想を思い描いていると、再び開けられた隣の部屋の扉。出てきた人と当然ながらバチリと目が合う。仕事着からその人はスウェットへと着替えている。なぜ出てきたと、心臓が冷えた。

「部屋に入らないんですか?」
「……星が綺麗だなあ〜って、思いまして!」

我ながら見え透いた嘘だと思った。現に、外には背中を向けていたからすぐに煉獄さんと目があったわけだし。内心冷や汗をかきまくりだ。星なんて部屋のベランダからでも見えるし。
突っ込まれてしまったらなんて切り返そう、どうしようと心の中で慌てていると、意外にも煉獄さんは納得してくれた。

「なるほど!視力が良いんですね!」
「えっ?あ、はい、結構良いです」
「羨ましい限りです!それでは」

言われて気付いた。今日は薄っすらと雲がかかっている。視力が良いどころの騒ぎではない。本気で私の視力がいいと、煉獄さんは思っているのだろうか。律儀に軽く私に頭を下げてからエレベーターへと歩いていく後ろ姿を見送った。ともあれ、これで煉獄さんが帰ってきても同じ理由で逃げられる。アホな隣人だとは思われたくないプライドがある。おじさんとかならまだしも、歳が近そうだし。そういえば、煉獄さんは彼女とかいるのだろうか。かっこいいし性格もきっと良いだろうからいそうだけど、部屋にそれらしき人がいた気配は今の所ない。家に入る前とか、話していたら割と聞こえるからわかると思うのだけれど。家に連れてこないだけかな。
まあ、そんなことは私には関係ない。星を見るていにしていたのも放って、立っているのが疲れたので冷たい廊下に座り込んだ。

「……さむ」

呟いた一言を拾ってくれる暖かい恋人はいない。本当、散々だ。
膝を抱えて疼くまると、憤りを感じていたのも通り越して悲しくなってきた。好きだったのに。でも向こうは私のことを好きじゃなかった。それが痛かった。人間不信になるぞこの野郎。私がこのまま一生彼氏ができずに独り身のまま生涯を終えたら、黄泉の国で呪い続けてやる。

「飲みますか?」
「……へ」

目を瞑って、どのくらい経っただろうか。もはや眠りこけてしまいそうになった時、思ったよりも柔らかい声が頭上から降ってきた。見上げるとそこには、コンビニの袋を持った煉獄さんが私に缶コーヒーを差し出していた。瞬きを繰り返す私に、煉獄さんも隣で膝を折り体を屈めた。

「今日は冷えますからね」
「あ、ありがとう、ございます……」
「どういたしまして!」

その流れのまま、断ることもせずに缶コーヒーを受け取った。前にコンビニで出くわした時に私が買っていたのと同じだ。よく覚えていらっしゃる。
プルタブを開けて、こくりと飲むと暖かさが身体中に染み渡る。ちら、と横目で煉獄さんを見ると、同じく隣で缶コーヒーを開けていた。

「……あの」
「ん?」
「部屋、戻らないんですか?冷えますけど……」

缶コーヒーを貰っておいて、何様だと思うけれど、私は一応自ら星を外で見ているというていでいるのだ。わざわざ冷える外にいてもらう必要はない。おずおずと尋ねた私に、煉獄さんは優しく笑った。

「君が嫌なら戻る」

その言葉に、私が星を見ている発言した時にきっと察したのだろうと、でも深くは聞かれないその優しさに無性に恥ずかしくなった。
缶コーヒーを一口飲むと、さっきよりもじんと胸が熱くなる気がした。

「……優しいですね」
「隣に住んでる女性が一人でこうしてたら、誰でも同じことをすると思うぞ」
「いやあ、面倒臭い、触れないでおこうって思う人が大半だと思いますよ」
「そうか?」
「そうです。彼女いる人だったら尚更」

マンションの誰かにこの光景を目撃され、いつしかその彼女がここへきた時にその噂が彼女の耳に入れば大変だ。でも、煉獄さんのことだから違うとハッキリ伝えたら彼女も信じるだろうか。彼女もきっと煉獄さんのような心優しい人だ。……知らないけど。

「俺はいないから、それには当てはまらないな」
「……へ、へえ」

いなかった。意外だ。モテそうなのに。いや実際のところはそれも知らないけど。
傷心中だったというのに、妙にそわそわしてしまう。駄目だ、優しさに騙されてはいけないと心したばかりなのに。
ギュッと、徐々に冷めてきた缶コーヒーを両手で握った。春の生暖かい風が吹いて気付く。コーヒーの匂いと、仄かに香るシャンプーの匂い。いい匂いだ。何を使っているんだろう。
聞いてもいいだろうかと、落ち着きをなくしていれば下から聞こえるバイクの音。
早く来てほしいと思っていたのに、ほんの少し寂しさを覚えた肌寒い春の日のことだった。

ユキドケの予感