短編



届かない場所に置いてある小瓶に手を伸ばす。踵を上げてもそれに触れることはできず、諦めて踏み台を持ってこようと溜息を吐いた時だった。

「これか?」

私に覆い被さるようにして目当ての物に手を伸ばされた。掴んだ小瓶を振り向いた私に炭治郎くんは微笑みながら手渡した。
小瓶をギュっと握り締める。

「ありがとう」
「どういたしまして」

炭治郎くんは、蝶屋敷で働く私によく話しかけてくれる。しのぶさんが一目置いている人で、私も何様だと思われそうだがそう感じていた。私とは比べ物にならない、未来がある人だ。
私には上背もない、力もない、しのぶさんのように毒を扱える技量も持ち合わせていない。人を一人二人襲った鬼を倒すことしかできずにいた私は、強くなりたいと我武者羅に稽古を続けていたがその範疇で怪我をし、走れなくなった。
鬼と戦って負傷したわけでもない、なんとも情けなくて惨めな人間なのだろうと自分を罵った。

「炭治郎くん、今から出るの?」
「ああ、少し遠くて。日没に間に合うようにはもう出ないといけないんだ」

私よりも後に最終選別を受けて、しのぶさんが屋敷に連れてきたこの人たちは尊敬するところしかなかった。私はもう鬼を斬ることもできず、隠としてこの人たちの手助けをすることしかできない。
出会った頃、ご丁寧に敬語を使ってくれた炭治郎くんに、そんな敬うようなことはやめてと話した。私なんかに敬語は使わないで、と。おかげで炭治郎くんは私を友達のように接してくれている。日だまりのような笑顔に温かくなる。
だから私も、みんなを送り出す時はどんなに大変な時でも笑っていようと心に留めていた。

「いってらっしゃい」
「うん……、
「?」

最近は、少しだけ蝶屋敷が忙しなかった。下弦の鬼が現れて、複数の隊士が負傷して身体に悲鳴を上げている。休む暇なんてものはなく、そもそも休んではいけないような使命感にも駆られていた為、ふとした時に気が抜けて目眩がしても踏みとどまって働き続けていた。みんなは、もっと大変なのだ。私がこれしきのことで根を上げていては憚られる。
炭治郎くんを送り出してからも、引き続き隊士の看病に勤しまねばならないのだが、炭治郎くんは表情から笑顔を消して呟いた。

「あまり、頑張りすぎないようにな」
「……私は大丈夫だよ」

眉を顰めて私を見据える炭治郎くんに胸が騒がしくなった。顔に出ていたのだろうか、みっともない。もっとしゃんとしなければ。
へらりと笑った私に炭治郎くんは何か言いたげな面持ちを見せつつも、一度口を閉じて私の手を握った。

「いってくる」
「うん」
「あと、帰ったら伝えたいことがあるんだ」
「うん……?わかった」

今、では駄目なのだろうか。真剣な声色で話す炭治郎くんに頷くと、炭治郎くんは私に背を向ける。
絶対に帰ってくるなんて、そんなことは保証もされていないのに、少しだけその帰りが楽しみで待ち遠しくなってしまった。
だから、炭治郎くんが屋敷を出てから私の体温が上がっている気がするのはきっと、私が勝手にその帰りを待ち遠しく思っている浮ついた心のせいであって、体力に限界が来ているわけではない。いや、限界が来ていたとしてもそんなものは関係ない。みんな、頑張っているのだから私が休んだりなどできるはずがない。

!」

薄い雲が流れる青空を見上げながら、深呼吸をしていると聞こえた声に顔を向ける。
物干し竿に干した洗濯物の隙間から見えるのは、こちらへ手を振りながら駆けてくる炭治郎くんの姿だった。ほら、私の心はどこか落ち着いて、やっぱり体力の限界ではなかったことが証明された。
私に駆け寄ってくる炭治郎くんの笑顔を最後に、私の意識はふつりと途切れた。
熱かった身体中が徐々に冷めていく感覚が頭の中で感じていた。ふと瞼を開いて視界に広がる見慣れた天井。瞬きを繰り返し、自分が今何をしているのかと体を起こせば額にのっていたらしい氷嚢が膝元へ落ちた。


「……炭治郎くん」

私の最近の記憶では、炭治郎くんは無事に帰ってきて、その心地の良い笑顔を私に見せてくれていたはず。そのはずなのに、今炭治郎くんは私が寝ている寝台の脇に座って、出かける直前のような浮かない表情を見せていた。

「これ、炭治郎くんが?」
「うん」

言葉を発さない炭治郎くんに居た堪れなくなり、平静を装って私の額から落ちた氷嚢を拾った。氷はまだ溶けていなくて冷たいまま。私が倒れてからすぐにこれを作ってくれたのだとしたら、意識を失ってからまだそんなに時間は経っていないのだろう。

「ごめんね、ありがとう」

少しの間だけでよかったと、作り笑いを浮かべて寝台を降りようとした。
私はこんなところでぬくぬくと休んでいる場合ではないのだ。熱が出たって関係ない。実際、炭治郎くんは熱が出ていても鍛錬を続けていた。
鬼を斬れない私ができることは数少ない。命の危険にだって晒されない平和な場所で暮らしている。
だから今すぐにでも仕事に戻らないといけないのに、炭治郎くんはそれを制するかのように私の肩を押し寝台へ沈めた。

、無理して笑わなくていい」
「…………無理、してないよ」

胸が、痛くなった。炭治郎くんが、苦しそうな表情を浮かべているからだ。心配させてしまっている自分が情けない。心苦しい。みっともない。
私はまだ頑張れる。頑張ることしかできないから、起き上がらなければいけない。
そう感じているのに、炭治郎くんは私の肩から手を離さない。

「強がるのを、否定するわけでない。自分を鼓舞するのに、大切なことだと思うから」
「強がってないよ、平気だよ」

優しくしないでほしい。咄嗟にそう思ってしまった。
誰にでも優しいのが炭治郎くんの持ち味でもあるのに、それを否定しようとしている。優しくされると、甘えてしまうのだ。私にはそんな権利などない。みんなの役に立ちたいのに、これでは私が迷惑をかけてしまっている。

「私より、もっと大変な人は沢山いるから」

その人たちの手助けをしなければいけない。それなのに、今私はその人に迷惑をかけてしまっているのだ。
こうして笑顔で帰ってきてくれたけど、決死の覚悟で鬼と対峙し、戦って来たはず。私も短い期間ではあったが刀を持っていたからわかる。鬼と戦いすらしていない元隊士がこんなところで休んでいては、面目も無い。
だから大丈夫だと、身体に力を入れて起き上がることを試みたが、ピクリとも動かない。

「どうして誰かと比べるんだ?」
「、」

私の肩を掴んでいる手に微かに力が加えられる。鬼と戦ってきて、疲れているだろう、休みたいだろう。これでは立場が逆なのに、炭治郎くんは私を離さない。
どうして、誰かと比べるのか。目の前で告げられた言葉が頭の中を支配する。
その答えは見つからない。でも、誰かと比較しなくてはいけない気がした。

「私、全然頑張れてないから」
「頑張れてないって、誰かが言ったのか?」
「そういうわけじゃ、ないけど……」

自分がどれほど頑張れているのか、役に立てているのかは、勝手に人と比較して、自分の劣っているところを見つけて、それを超えていくことでしか実感できなかった。
ただでさえ、私は人と同じ線上にも立てていない、何もできない人間なのだ。
歯切れの悪い私に炭治郎くんは少しだけ力を緩めて、眉を下げて柔らかい笑顔を見せた。

「休んでもいいんだぞ」
「……そんなわけにはいかないよ。みんな頑張ってるのに」

お願いだから、もう、これ以上優しくしないで。無理矢理でも私は身体を起こしてみんなに役に立ちたい。この寝台にだって本当は私ではなく、今しがた帰ってきたばかりの貴方がいるべきなのだ。
私を見据えるその視線から逃れると、炭治郎くんは、そうかわかった、と息を吐いた。

「なら、みんなで休もう!」
「え、?」
「呼んでくるよ!」

いや、一体、何がどうなってそういう答えに辿り着いたのだ、そんな私の疑問は投げかける隙もなく炭治郎くんは一度部屋から出て行った。
今なら私も部屋から抜け出し、いつも通りの作業へ戻れたのに、炭治郎くんの突拍子もない発言に呆然としていたらドタドタと廊下を踏み均す音が聞こえてきた。

ちゃん熱だって!?もう寝よう!名案だ炭治郎!寂しくないように今からみんなで寝よう!」
「善逸!同じ寝台に入るのは俺が許さない!」
「おら食え!仕方ねえからやるよ!」
「おまっそれ厨房でなほちゃんたちから掻っ攫ってきた饅頭だろう!」

一番に部屋に入ってきた善逸くんが真っ先に私の寝台へ潜り込もうとして炭治郎くんに止められ、その傍らで伊之助くんが私へ饅頭を差し出した。すでに自分でいくつか食べていたのが口元についた粕で見て取れる。
看病する身としては、熱があるというのにこれは騒がしいのではないのかと思ったけど、賑やかなこの雰囲気に胸の中から我慢していた何かが溢れ出てくる感覚がした。


「……炭治郎くん、」
「頑張るのは大事だ。でも、頑張りすぎは良くない。は、今は頑張りすぎだから。自分にできることをしたらいいと思う」

再び先程まで炭治郎くんが腰掛けていた椅子に座りなおし、炭治郎くんは私へ穏やかな笑顔を見せた。
それから、困ったように笑いながら二人を交互に見た。

「俺は善逸のように速く動けないし、伊之助ほどの力もない。でも俺には俺にしかできないことはあると思って力を合わせてる」
「た、炭治郎……!」
「はっ今更だぜ!」

炭治郎くんの言葉に善逸くんは瞳を潤ませ、伊之助くんは多分、気にしてない素振りを見せながらも胸の中にその言葉が浸透していそうだった。

「私には、」
「俺がいる」

俯いた私の手をとって、包み込んだ。大きくて温かくて、優しい手だ。
だから、優しくされたくないのに、そんなことをされては、耐えていたものが溢れ出てきてしまうのだ。
顔を上げれば、私の視界に映る温かな世界は滲んでいた。

「一人じゃないよ」
「……っうん」

私の頭を撫でる炭治郎くんに、子供のように縋り付きながら涙を流した。
何もできないと自分を蔑んで罵って、自己嫌悪に陥っていた。みんなが頑張っているからと。
そんな私を包み込んでくれる人がいれば、私はもう後には戻れないと思った。
隊士でもないくせに、隊士に甘えるような真似をしていいのかと胸が苦しくなっていたのに、それ以上にこの人は私を日だまりの中へ導いてくれるような気がした。

「そうだ、伝えたいことって……?」

暫くして涙が止まり、炭治郎くんから離れて見上げれば、炭治郎くんは頬を赤らめて顔を逸らした。

「あー…… 、二人でいるときに言うよ」

眉を下げて笑う炭治郎くんに、少しだけ胸が飛び跳ねた気がした。

頑張り屋な君へ