短編



「大丈夫か?」

額から汗を流し稽古場の床を湿らせる。膝をついて息を切らす私に駆け寄った炭治郎は私を心配そうに見つめた。
そんな目を向けないでほしい。私には、劣等感があった。
カナヲと一緒にしのぶさんの下で稽古を始めた時からも、カナヲとの差はどんどん開き、選別にはカナヲがいたから残れたようなもの。
更にはひょんなことから蝶屋敷で暮らすようになった同期三人にも、圧倒的な差を見せつけられて、私の心は枯れ果てる寸前だったのだ。

「……大丈夫」

炭治郎は私に手を伸ばしてくれたけど、その手は借りずに自分で立ち上がる。私はこんなに息を切らしているというのに、目の前の炭治郎はうっすら額に汗をかいている程度。
女だから、なんて言い訳は効かない。カナヲはしのぶさんの継子であるのに比べて、私はただの弟子なのだ。私には、才能がない。

「ちょっと休憩しよう」
「え、……大丈夫だよ」
「今無理するのはよくない。最近緊急招集も多いし」
「……」
「な!」

くしゃりと笑った炭治郎に、胸が締め付けられた。
相手にならないことが悔しくて、申し訳なくて。善逸や伊之助がいたら三人で手合わせをしているだろうけど、実力的に四人よりも任務が入ることが少ない私は屋敷にいることが多くて、炭治郎は私をよく誘う。一人で鍛錬をしていた方が、絶対に効率がいいのに。役に立たない私と手合わせをしていてなんの意味があるのだろうか。
炭治郎は稽古場の隅に置いてあった手拭いを手にしてからこちらへ戻ってくる。ほら、と差し出されたので素直に受け取り顔を拭いた。

「今日はもうこのまま終わりでいいよ。別々の方が効率もいいだろうし」
「そんなことはない。と手合わせするの、勉強になることが多いし」

稽古場の壁に背中を預けて隣にいる炭治郎へぼやいた。
炭治郎は、誰に対しても優しい。実力では雲泥の差があると気付いていないわけではないだろう。それなのに、決まっていつも今日もありがとう、だなんて口走るのだ。お世辞でしかない。
横目で炭治郎をちらりと見ると、炭治郎はずっとこちらを見ていたらしくて赤みがかった瞳とバッチリと交わってしまう。思わず逸らして、私は視線を下へ向けた。

「お遣いがあるの」
「お遣い?」
「うん。しのぶさんに頼まれた」

調合に必要な薬草を採ってきてほしい、と言われている。少し離れた山奥に生い茂っていて、しのぶさんが戻ってくる前までに帰って来るというちょっとした任務を私には課せられていた。鬼狩りでもない、誰でもできることだ。
だから、決して炭治郎を避けているわけではない。

「俺も行くよ!」
「え、」
「いいよな?」
「……いいけど」

避けているわけではないから、断る理由はなかった。
私と町を超えた山奥に行くよりも、あなたはよく指令が入るのだから屋敷で準備をしていた方がいいのではないかと頭を過ったけど、そうと決まれば、と炭治郎は部屋で寝ているであろう禰豆子ちゃんを呼びに行った。
昼間だから箱の外には出せないけど、炭治郎はいつも禰豆子ちゃんと一緒だ。
準備を済ませ、蝶屋敷の入り口でよし、と箱を背負う炭治郎。

「行こうか!」
「うん……」

陽光が差し込んできそうな笑顔に私は顔を背け、屋敷の扉をガラガラと開いた。
久しぶりに町へ降りると、相変わらず活気付いていて、この世の中に鬼がいることなんて微塵も感じさせない雰囲気だった。
刀を携えているので、人目に付く大通りにはなるべく出ないようにしながら人通りの少ない道を歩く。

「あ」
「?」

ふいに、炭治郎が声を上げて立ち止まる。そちらを向くと、炭治郎は左方向に視線を向けていた。それを辿った先は、『甘味処』と赤い暖簾がかけられたお店だった。

「帰り、食べて行かないか?好きだろう?」
「え、うん、好きだけど」
「いつも美味しそうに羊羹やカステラを食べてるから」
「な、!」

驚く私に、炭治郎は平然とした笑顔を向ける。朝食も夕食も、食べる時間はいつも同じだから屋敷にいるときは当たり前のようにみんなで食べているけど、そんな風に見られているとは思っていなかった。
その事実に途端に恥ずかしくなった私は、顔に熱が集まるのを無視しつつその顔が見られないように俯いた。

「時間あればね」
「なら、急ごう」
「!」

そう言って、炭治郎は自然と私の手を取り歩き始めた。
あまり、こういうのに私は慣れていない。小さい頃に親を亡くして、鬼に襲われそうになってからはずっと蝶屋敷で刀を握っていたから、男の人と手を繋ぐなんてことはなかったのだ。

「ちょっと、」
「ん?」
「手、」
「放さない」

放してほしい、私がそう口にする前に炭治郎に遮られた。突然の言動に私は胸がどくりどくりと跳ねている。
ただでさえ、いつもいつも、こんな私に優しくしてくれるから、他のみんなよりも私は意識してしまっていたのに。
好きだとか、愛だとか、そういうのはよくわからないし、わかりたくもないと思っていた。特に、この人相手には。
手はそのままに、山奥に着いて薬草を採りはじめる。日が暮れて薄暗くなってきた。しのぶさんが柱合会議から戻ってくるのには十分間に合いそうだ。

「これで足りそうか?」

持ってきた風呂敷に薬草を集めた。独特の香りがするから鼻が効いたらしく、ほとんど炭治郎が見つけて採ってきてくれた。
こういうところまで、私は劣っているのだと自嘲した。

「うん、大丈夫」

もしかしたら、私一人だと時間がかかってしまうことがわかって炭治郎はついて来てくれたのかもしれない。いや、もしかしてではない。絶対にそうだ。
じゃあ帰ろう、と炭治郎はまた私の手をとろうとするけど、それは避けた。

「あのさ、炭治郎」
「?甘味処にいく時間も結構余裕がありそうだな」
「もう、いいよ」

嫌だった。弱い私を、守ろうとしてくれるのが。匂いで気付いているのだろう。私がみんなと比べて劣等感を抱いていることを。
でも、この人は優しいから私をその輪に入れてくれようとする。役に立たないのに、情けをかけられる自分が嫌で嫌で仕方なかった。
草木に囲まれて薄暗い中で、冷たい空気が流れるのに構わず私は続けた。

「もう鍛錬も誘ってくれなくて大丈夫。私役に立ててないでしょう」
「そんなことはない、は、」
「あるよ。体力だってみんなと違ってすぐへばるから全然ついていけないし。みっともないところばかりで、」
「違うんだ!」

一度避けた手を、炭治郎はがしりと力強く両手で包み込んだ。暖かい手の平に包み込まれて、よくわからないけど涙が溢れて来そうになってくる。なんの涙なのかさえ全くわからない。

「俺、と一緒にいたくて」
「……私が弱いから」
「それはちが、!」
「!」

私に詰め寄る炭治郎は途中で言葉を詰まらせた。周りの空気が変わったことに、私も炭治郎も気付いた。いる。鬼が。
炭治郎はそっと私から手を放して、周りを見渡す。姿は見えない。けれど確実にいることはわかっている。
お互い刀を抜いて、複数いるであろう鬼を迎え撃つため背中を合わせた。

「三体だ」
「うん」
「俺の前方に二体、そっちに一体」

声色が変わる炭治郎に耳を澄ます。共闘になる場合、実力が上である人の言葉を聞くのが賢明だ。
風がそよめき木々が揺れる。善逸だったら、この音できっと鬼がどこにいるのか正確に把握できるのであろうと、こんな時まで比べてしまっている自分に嫌気がさした。

、聞いてくれ」
「うん、どうする」
「俺、のことが好きだ」
「……は」

まるで指示を出すかのような声色で早口に告げられた一言に、思わずそちらへ振り返りそうになったけど堪えた。
私の緊張を解そうとしたのだろうか、それにしてはあまりにも適当なのではないか。返って心臓に悪い。

「その冗談はちょっと、」
「冗談なんかじゃない。だから、俺は君と一緒にいたいだけだったんだ。短絡的ですまない」

嘘を吐く時、この人はいつも変な顔をする。けれど今はそれがわからないから、どっちなのかが判断できない。でも、嘘を吐いているような話し方ではない。きっとその綺麗な瞳を据えているのだろうと、顔を見ずとも想像できた。

「でも、だからこそ一番理解していることがあるんだ。それは多分、君よりも」
「……それは」

違う意味で、心臓に悪かった。私が気付かなかった、気付かないフリをしていた気持ちを掬い上げてくれたような気がした。
呟いた私に、くすりと後ろで息を漏らした声が聞こえた。

「背中は預けたぞ」

炭治郎が私に送る指示は簡単なものだった。瞬間、前方から鬼が現れて、私は炭治郎のその言葉通りにその鬼に集中した。
伊達に、劣等感に苛まれながら鍛錬を続けていない。私が負けるのは、鬼殺隊である彼らだけでいい。

「鬼狩りィイイ!っ、ガハッ」

素早い鬼に一時翻弄されながらも、この一体に集中できたことで私は頸を斬ることに成功した。
確実に塵となっていくのを確認してから、一人で二体を相手にしている炭治郎へ漸く視線を向けると、ちょうど残りの一体の頸を斬ったところだった。

「炭治郎!」

名前を呼んで駆け寄る私に、炭治郎は今の今まで鬼と戦っていたとは思い難い笑みを零した。
頬に擦り傷がある。懐にいつも忍ばせている塗り薬を取り出して、指の腹へのせた。頬へ撫でるようにそれを滑らせた。

「っ、」
「痛い?」
「少し。ありがとう」
「……それは、こっちの台詞」

自分のことが嫌いで嫌いで仕方なくて、私は距離を置こうとしていた。その現実から逃げようとしていた。
それでもこの人は私に手を差し伸べて、隣を歩こうとしてくれた。
傷口に塗り終えた手を引っ込めようとした手は、そのまま炭治郎に掴まれる。

「さっきの返事が聞きたい」

頬に手をあてがったままそう優しく微笑まれては、胸が煩くなってしまう。
それでも、芽生えていた恋心と炭治郎への感謝の気持ちを一緒にしてはいけないと、私は顔を背けた。

「後で、甘味処で話します」
「……うん!楽しみにしてる」

今はまだ、落ち着かないから。この胸の鼓動は鬼と戦ったすぐ後だからかもしれないから、なんて心の中で言い訳をした。
そのまま炭治郎は私の手をとって、来た時よりもほんの少し早く歩みを進めるものだから思わず笑みが溢れた。
おかげさまで、帰りが遅くなってしまいしのぶさんには二人して怒られたけど、きっと今日の出来事は、私の中で一生忘れない一日だった。

きみの背中を知っていた