「で、どこまでいったんだよ」
熱々とした湯気が立ち上る中で、含みをもたせたように目を細めて訝しげに俺へ口角を上げたのは善逸だった。
柱稽古に精をだしたご褒美、ということで宇髄さんに温泉に連れて来てもらった。
俺と善逸と伊之助と、派手に行こうじゃねえの、という宇髄さんの粋な計らいで同期の玄弥とカナヲ、も一緒だった。
蟹や栄螺といった普段食べることのできないような豪勢な夕食も済ませて、後は旅館自慢の露天風呂に浸かるだけ。
丁度俺たち以外には客人も居らず、全力で泳ぐ伊之助に注意をする必要もなかった。玄弥は鬱陶しそうにしているが。
「何の話だ?」
「おいおいしらばっくれるなって。裸の付き合いに隠し事はなしだぜ炭治郎」
脈絡もなく振られた話題に首を傾げれば、揚々と肩を組まれる。裸の付き合いに隠し事はなし、という点については賛同できるのだが、善逸が俺から何を聞きたいのかがまるでわからずに顔を顰めていると、肩から善逸の手は離れ呆れたように一つ息を吐かれた。
「ちゃんのことだよ」
「?」
「付き合ってだいぶ経つだろ」
ああ、聞きたいのかそういうことか……、と漸く理解できた。
とは戦い方の相性からか任務が一緒になることも多く、任務が無事に遂行できた時にはいつも帰りに甘味処や茶屋に入って穏やかな時間を過ごしていた。
俺の話に楽しそうに耳を傾け微笑みながら頷いてくれて、次にと会えるのはいつになるだろうかと待望するほど、俺はに心酔するようになっていた。
もう抑えられないと思いを告げた時、が『私も』と笑いかけてくれた時のことは今でも脳裏に焼き付いている。一生忘れられない思い出だ。
「へぇーお前、一丁前に女がいたのか」
話を聞いていたらしく、声がした方へ顔を向けると宇髄さんが露天風呂の岩場に肘を突きながら口元に笑みを浮かべていた。
「って、のことだろ。大人しそうに見えてまさかお前と付き合ってたとはな」
宇髄さんの言う通り、は謙虚で控えめな子で、だけど刀を握り鬼と対峙した時の立ち振る舞いには確固たる意志も感じる強い子だ。
きっと、宇髄さんの柱稽古でも、その後の稽古でも難なくこなしていたのだろう。俺は後から参加だったけど、できることならと一緒に参加して高め合えたらよかったとほんの少しだけ思わなくもなかった。
「おーい炭治郎くん?一人で世界に入らないで?」
もし一緒に柱稽古に参加していたら、どうだっただろうか。俺はの才能に惚れ惚れすることに違いないだろう。彼女は女性であるけど強くて逞しい。見習わなければいけないところも沢山ある。反対に、俺がに教えることができる場面もあったかもしれないと想像を張り巡らせていると顔の前で手を上下に振られた。
我に返った俺に善逸はそれで、とおもむろに切り出す。
「どこまでいった」
瞳孔が開いているようだった。顔が近い。
善逸の後ろに見える玄弥は何も口を挟んではこないが、おそらく宇髄さんと同じく俺とのことは今知ったと思う。伊之助は知ってはいただろうが、今は逆上せ上がって岩場へと寝転んでいた。
「炭治郎!」
「っ近いぞ善逸!」
「女を……女を知ってしまったのか?どうなんだ炭治郎」
「どういう意味だ!」
「まぐわったのかどうかだよ!!」
「していない!しても教えない!」
遠慮なくずんずんと俺に詰め寄る善逸を押し返した。
俺の返答に善逸は心の底から安堵したように胸に手をあて深く息を吐いていた。
付き合ってからはもう随分と月日が経つけれど、とそういうことはまだしていない。何となく、早い気もしてしまうし手を出す、ということはできていなかった。例えそういうことをしたとしても、絶対に教えないが。これは俺だけの問題ではなく自身のことでもあるからだ。俺がペラペラと口を滑らせていいものではない。
「なんだ、じゃあ口吸いだけか」
「……」
「柔らかいんだろ?例えるならなんだ?」
「…………」
胸を撫で下ろした後、つまらなそうに口を尖らせるが一匙でもいいから俺とのことが知りたいらしい。屋敷じゃアオイさんやきよちゃん、療養中の隊士も大勢いるからこうしてゆっくりじっくり話せる機会もなく、だからこそここぞとばかりに根掘り葉掘り聞きこもうとしているのだろうが。
それでも、俺から話せることはない。
「だんまり決め込むなって炭治郎!な!」
「ああ、してねぇのか。何も」
「!」
何とかして聞き出そうと笑みを浮かべる善逸から目を逸らし下唇を噛み締めていると、そんな表情をしていたからか、察されてしまった。宇髄さんに。あからさまに肩を揺らしてしまったことで、肯定を表してしまった。
割って入った宇髄さんの声を辿っていた善逸がぐぎぎ、と再び俺に視線だけ向ける。湯に浸かっている汗ではなく、冷や汗が俺の額からじんわりと浮かび上がってくるのがわかった。
「嘘でしょ!?」
「その過剰な反応やめてくれ!」
バシャン、と両頬を抑えて立ち上がり、その勢いでお湯が俺に被った。水飛沫を遮るように顔の前に手を出した俺に、またも善逸は俺に詰め寄り両肩を掴んだ。
「女の子と付き合ってるんだろ!?それただの友達だぞ!?」
「友達じゃない!ちゃんととは付き合ってる!手も繋いだ!」
「手!だけ!?炭治郎お前!本当についてんのか!!」
「やめろ!!」
喚き散らしながら肩を掴んでいた片手を湯船の中に入れ、あらぬ場所へ伸ばそうとした手を慌てて止めた。大概に、そして一先ず落ち着いてほしい。
「触りたいと思わないのか!?あんなことやそんなことしたいと思わないのか?」
「それは、……」
「思うだろう?なあ炭治郎!」
「思うよ!」
誤魔化そうとしたところでこの攻防は埒が明かない。辱めに一言声を上げた俺に満足したのか、局部へと手を伸ばしていた力は弱まり手を放した。
思わないわけはない。俺だって、最初のことはと美味しいものを食べながら話をしているだけで満足だったのだが、徐々にもっと触れたいと思ってしまっている自分もいる。ただ、いきなりそんなことをしてはを驚かせてしまうし、ゆっくりでいいと俺は思ってる。
「でも、俺がそう思っていても、がそう思っているかはわからないだろう」
「いや思ってるだろ……なあ!」
「知るかよ」
信じられないと目を見開きながら善逸は俺たちのやり取りを静観していた宇髄さんへと振り向いたが、まるで興味のなさそうに一言吐き捨てられた。
「嫁が三人もいるのに知らないわけないだろうが!!」
「女によるだろ。……まあ、」
善逸の叫びを面倒くさそうに淡々と流しながら、宇髄さんは俺へと視線を向ける。
そして口角を上げながら、顎を上げて言ってのけた。
「長いこと付き合ってて男がひよってんのはカッコ悪いけどな」
頭を、金槌で打たれたような鈍痛が響くようだった。
カッコ悪いと、まさかそんなことを言われるとは思っていなかった。俺にとっては初めてできたそういう子であるし、大切にしていたつもりだった。だから、決してひよっているわけでもない。決して。
ぐーすかといびきの煩い部屋を抜け出し、長く続く廊下を歩いて庭園へと向かう。
「炭治郎」
荘厳な庭園に備え付けられて椅子に座っていたが俺に気付いて微笑んだ。いつもより熱っぽく見えるのは、さっきまで温泉に浸かっていたからだろうか。
夜寝る前に二人で話そう、とこの温泉に来た時こっそりと耳打ちしていた。二人だけの秘密のようで、心が騒がしくもこの時間を楽しみにしていた。
「上がったばかりなのか?寒くないか?」
「大丈夫だよ。みんなと夕食の時に沢山お喋りしてたら、温泉入るの遅くなっちゃって。雛鶴さんたち、とっても優しいの」
「そうなんだ。俺もみんなと湯に浸かりながら話してたよ」
の隣に座りながら今日のことを振り返る。内容はには話し難いというか、一切話せないのだが、でも楽しかった。もきっと同じように過ごしていたのだろう。欲を言えば、もう少しだけと二人でいれる時間も欲しいと、少しだけそんな風に思うけど、こんなによくしてもらったのだから身の程知らずだ。
「音柱と?仲良いよね」
「うん。よくしてもらってるよ」
「いいな、何を話してたの?」
『いいな』という一言に深い意味はないのだろうけど、蟠りを覚えてしまう。こういうところがカッコ悪さに繋がってしまうのだろうか。の前ではかっこいい人間でありたい。の自慢の恋人でありたいと思っているけど、俺はそうなれているだろうか。
「炭治郎?」
「あ、えっとその、色々!男同士の、ってやつだ!」
「そっか、楽しそう」
に名前を呼ばれ我に返り、しかしながら内容は断固として話すわけにはいかずにそれらしい理由で誤魔化した。
焦る俺には特に疑問には思わなかったようで、口元に手をあて静かに小さく笑った。その横顔に、胸から響く音が鳴り止まない。
膝の上に置かれたの手に自分の手を重ねた。風呂から上がったばかりだからか熱が残っていて、その熱さにもっとこうしていたい、二人でいたいという欲が掻き立てられた。
「……ねえ、炭治郎」
重ねた手を、は手の平を上に返して俺に指を絡ませる。その指がぎゅっと俺の手の甲を押さえ込むように力が強くなった。
控えめに呟かれた名前に返事をして、繋がれた手からの瞳へと視線を移す。
「炭治郎が良かったらで、いいんだけど」
「うん……」
俺と視線がぶつかったは一度瞳を泳がせながら、言いにくいことなのかその……と口をまごつかせ、もう一度俺をその瞳へと映し、頬をほんのりと染め上げた。
「今度は、炭治郎と二人で来たいな」
眉を下げて照れたように微笑む彼女に、胸がいっぱいになった。
「駄目?」
「ううん。俺も、同じこと思ってた!」
口を薄っすら開けたままの俺には反応を窺うよう首を傾げたが、否定するように俺は首を横に振った。
も俺の返答に柔らかく笑って、それがいたく愛おしくなって、近かった距離を更につめて額をコツン、とくっつけた。
自分の高ぶった感情のままにしてしまったけど、ここで気付いた。このまま、唇に触れてしまえそうで。途端に温泉に浸かっていた時の善逸の言葉の数々が思い出される。しても、いいのだろうか。
「……!」
数秒見つめ合ったままでいると、の瞼がおもむろに閉ざされる。おそらく、いや、確実に肯定の合図だ。
どくどくと尋常でないほどに心臓の音が全身にこだまする。周りには壮麗な庭園が広がっているのに、俺の視界には目の前のしか映っていなかった。
艶やかな唇を前にして息を呑む。手は、どこに置くのが正解だろうか。どのくらいの間唇に触れていてもいいのだろうか。
―男がひよってんのはカッコ悪いけどな
そんな心配がぐるぐると頭の中を駆け巡るが、宇髄さんの言葉を思い出した。俺はひよってなんかいない。できる。やってみせる。
繋いだままの手にキュッと力を込めると、の瞼が揺れる。それからほんの少し顔を上げたので、俺も覚悟を決めてその唇に自身の唇を寄せながら、瞳を閉じた。
「おっ、押すな押すなっうわぁあああ!!」
「「!」」
バタバタバタッと庭園へと繋がる廊下から聞きなれた声と物音がした。
もう少しで触れそうだった顔も、繋いでいた手も離してそっちへ顔を向けると、雪崩でもおこったかのように伊之助と玄弥に乗っかられた善逸が一番下で呻いていた。
「お前たち……!」
「お、怒るなって炭治郎」
「俺は止めた」
「俺も止めた」
「いや最終的に一緒になって見てたよな!?」
「あーあ、いいとこだったのによ」
覗かれていたことに沸々と怒りが込み上げ、起き上がる善逸へ詰め寄れば間にどこからか割って入ってきた宇髄さんが音もなく現れた。
全員に行く末が気になられていたのかと思うと羞恥心に襲われる。
「勝手に覗かないでください!」
「覗くも何も、人がいないからって庭園でやってるおまえらが悪いんだろ」
「ぐっ……」
確かに、ここは俺たち以外の客も自由に来てその景色を眺められるところである。誰もいないことをいいことに、そしてこの穏やかな空間に善逸たちの気配も感じ取ることができなかった自分が情けない。
「見られたくないんだったら部屋でやれ、部屋で。今日はもう寝るぞ。明日早ぇし、騒がしくしてると他の客にも迷惑だ」
言い返すことなんてできない俺に宇髄さんは背を向け、善逸たちもつまらなそうにしながらその後に続いた。いや、俺はまだしも、善逸たちがつまらなそうにするのは心外だ。
それでも、お預けをくらってしまい、にも一連のやり取りを見られてしまっていたという恥じらいは残るだろう。
俺の後ろで胸に手をあてて様子を眺めていたへ振り返った。
「ごめんな」
「あ、ううん。また、今度ね」
「部屋まで送っていくよ」
「大丈夫。一人で帰れるよ。ありがとう」
もう少しだけ二人でいたいだけの、ただの口実でもあったのだがが首を横に振ったのでわかった、と頷いた。
でも、今日のことでが唇に触れてもいいという意思だけはわかったので、次は絶対にやってみせる。かっこよく。
「じゃあ、また明日」
「うん、また明日」
控えめに片手を上げたの笑顔に俺も笑いかけて、善逸たちの後を追うように歩いた。
「炭治郎」
「、っ、え、」
不意に呼ばれた名前に振り向く前に、腕を引かれ頬に柔らかい感触があたった。
何をされたのかすぐに理解できずに固まっていると、は俺の腕を放して、頬に熱を走らせながら笑みを浮かべていた。
「おやすみ」
それだけ告げられ、くるっと背中を向けて駆けていくを呆然と見つめていた。
真っ白な頭のまま、柔らかい感触が残る頬に手で触れる。
彼女の前では、かっこいい自分でありたいと思っていたのに、虚しくも彼女の方が一枚上手であった。
湯煙黙示録