短編



「あの……大丈夫でしょうか」

太陽を隠す雲から雨が絶え間なく降り注ぎ、雷鳴が轟いていたその日、砂利道で倒れていたのは我妻善逸さんという、少し変わった方だった。
もしかして、もうお亡くなりに……、とうつ伏せの彼へ恐る恐る声をかけると唸り声が聞こえて少しだけ安堵した。息があるのだとわかり、ただ、一人で男の人を運ぶことはできないから肩をお貸しするので歩けますかと問えば、返ってきたのは『お腹が減った』だった。唸り声だと捉えていた音は、お腹の音だったらしい。

「ありがとう、助かったよ」

久しぶりに、誰かに笑顔を向けられた気がした。
私が彼をこうして助けた日以来、人里離れた山奥で一人で暮らしていた私にとって、善逸さんは唯一の話し相手となっていた。けれど私と一緒にいてはきっと“酷い目”に遭わせてしまう。ある日そのことを善逸さんに漠然と伝えると、そんなの俺は気にしないよって、笑ってくださった。

「私は、その、疫病神なので……」
「疫病神?どこが?俺を助けてくれた女神だよ、ちゃんは」

今日も善逸さんは、静まり返る山奥の小屋へと赴いてくれた。善逸さんの住んでいる場所はどの辺りなのか聞くと、距離なんて関係ないよ、なんてはぐらかされたり、普段は何をしているのかと問えば、剣道の修行をしている、とはぐらかされてしまっている気がした。でも私も、自分のことは少しだけ隠しているから深くは尋ねることができない。今だってこうして遠回しに私とはいない方がいい、と伝えることしかできない。
善逸さんがこうして私に会いにきてくれて、一緒にご飯を食べて、双六をする時間が幸せだった。もうこれ以上の幸せはないかなと思うくらいには、特別な日々だった。

「そうだちゃん、たまには町に行かない?俺、美味しい店沢山知ってるんだよ」

鰻もいいし、でも今は時期が違うから甘いものがある店がいいかな、と頬を綻ばせる善逸さんに、私は頷けなかった。町へは行けない。行ったら、町の人にも善逸さんにも迷惑になってしまう。それから、折角私のことを良くしてくれている善逸さんに私の扱いを知られてしまうことも嫌だった。善逸さんの目の前からいなくなるなら、善逸さんの中では“良い人”のままでいたかった。

ちゃん?」
「あ、いえ、あの私は、町は、少し苦手で……」
「人混み苦手?」
「えっと……、はい」
「……そっか」

立ち上がった善逸さんはもう一度座り直す。折角のご好意に悪いことをしてしまっただろうか、でも、善逸さんに煙たがれてしまうのも嫌だった。
今日は、善逸さんと出会った時のように雨が降り頻る日だった。昼間だけど太陽は分厚い雲に覆われていて辺りは暗い。時折ピカッと外が光りバキバキと音が鳴る。木の板が水を吸った湿り気のある匂いが充満していた。

「じゃあさ、今度俺が町まで行ってちゃんが好きなもの買ってくるよ、何がい、」

ほんの少し気まずくなってしまった空気を善逸さんが和らげようとしてくれたその言葉は、最後まで紡がれることはなく大きな物音に遮られた。
年季の入った小屋の扉が弾き飛ばされる音。飛ばされた扉は部屋の奥にミシミシと音を立て見るも無惨な状態となっていた。

「稀血だなァ、お前」

突き破られた扉の前に姿を見せていたのは、鬼だった。願いたくもなかった日が、よりにもよって善逸さんがいる今日、来てしまった。
今まで、何度か見てきたその生き物に怖さが慣れることはなかった。けど、私は今日ここで終わるのだ。

「ぜ、善逸さ、逃げ、!」

怖さに腰が抜けて動けないでいたけど、善逸さんまで巻き込まれてしまう。あの生き物の狙いは私なのだ、だから今すぐに、私が食べられている間にでも逃げてほしいと手を伸ばせばその手は強く掴まれ、引き寄せられた。

「うん!あれはやばいよ逃げよう逃げるが勝ちだ!!」

尋常ではない速さで私を横に抱え、善逸さんは鬼に塞がれた出入り口とは別の勝手口から一目散に山の中を駆けて鬼から距離を取る。雨が視界の邪魔になるはずなのに、人一人抱えているのにそんなことまるでなんの影響もなさそうに走り続けていた。

「おい待てェ!!」

善逸さんがどういう人であるのかは、詳しくは知らなかったけれど、でも人間なのだ、多少こうして平均よりも動けるからといってあんな生き物から逃れられるわけがない。案の定、すぐに私たちに追いついたその鬼は身体の一部を伸ばしたのか、善逸さんへと攻撃を仕掛けた。

「この状況で待てって言われて待つ奴なんていないんだよっ……!」

周りに生える木々を上手く利用して間一髪のところでその攻撃をかわし、動いていたら鬼に見つかってしまうと考えたらしい善逸さんは一度木の陰に隠れ私を下ろした。
草むらの隙間から相手の様子を伺っている。

「……善逸さん」
「大丈夫、ちゃんは心配しないで、……って言っても無理あると思うけど……」

その横顔はかなり青ざめている。それでも、私を守ろうとしてくれる善逸さんに、こんな状況で私は心底幸せだと思ってしまった。
このままだときっと、私に幸せな時間をくれた善逸さんまで私のせいで命を落としてしまう。

「あの、隠していてごめんなさい。私、あの鬼という生き物には狙われやすい血らしくて」

子供の頃、朝日が出る直前、両親の間で寝ていた私の家に、鬼が襲いかかってきた。子供を渡すならお前たち二人は殺さないでいてやる、と、本当かどうかはわからないけれどニヤニヤと口端を上げながら鬼はそう言った。けれど、お父さんもお母さんも、私を庇ってくれた。その結果、家は血だらけになって、でも太陽が昇ってきて私は運良く助かった。
『君は稀血だから気をつけなさい』と、放心状態でいる私に鬼の痕跡を追ってきた鬼殺隊という組織の人に告げられた。それから、親戚の家に預けられた私は夜はあまり出歩かない毎日を送っていたけど、そんなのなんの意味もなさかった。鬼は、今日のように場所も、太陽さえなければ時間も関係なく人を襲うのだ。
私を引き取ってくれた親戚も犠牲になった。大切な家族を、二度も失った。町の人からは、距離をとられるようにもなった。出て行け、と小さな子供から泥団子を投げつけられたこともある。
だから、こうして山奥で一人で暮らして、その時が来たら惜しみなく幕を閉じようと思っていた。

「私といると狙われてしまうのに、善逸さんといるのが楽しくて……黙っていました、ごめんなさい」

善逸さんが私の元へ来てくれるのは、いつも日中だったから巻き込むことはないと油断していた。

「おいどこいったァ、近くにいんのはわかってんだぞ。今なら楽に死なせてやる」

最低な人間だと思う。人の命を、またしても私が奪ってしまうところだった。
鬼の様子を伺う善逸さんの手をそっと握り締める。

「私、幸せでした」

もう庇ってもらうのは終わり。大切な人がいなくなってしまうのは、何よりも嫌だ。できる限り、精一杯に笑ってから、さっきまで力が入らなかった足を踏み出し物陰から鬼の前へ歩み寄った。

「おう素直だな、一瞬で殺してやる。俺は嘘は吐かねェ」

何度前にしても、怖い。雷で辺りが明るくなった瞬間に見えたその顔に恐怖が襲って手足が震える。
髪の毛も着物も肌にペッタリとくっついて身体が冷えるけど、それよりも待ち受ける死を前にして、心の奥底が氷のように冷え切っていく感覚がした。禍々しい手、鋭い爪が私の首元へ伸び、ギュッと瞳を閉じた。

「いやいやいや、ダメでしょう!!」

覚悟をしていた私を襲ったのは、鋭い痛みでもなんでもなく、人の温もりだった。
そばから聞こえた声と同時に私に覆い被さるようにして、善逸さんが鬼の手から私を庇ったのだとわかった。

「テメエ、さっきから邪魔しやがって」
「あの、私のことは置いて、逃げてください」
「うん、逃げるけどね!?一緒に逃げるに決まってるでしょ!」

ひょいと私を抱え上げて、再び善逸さんは走り出す。
隠していたのに、自分の命を危険に晒している張本人をどうしてそうまでしてくれるのか、わからなかった。彼が優しい人であることは、もう十二分に理解していた。私はその優しさを自分の幸せの為だけに利用してしまっていたのに。

「善逸さ、」
「絶対に死なせないよ」

私を抱える腕に血が滲んでいたのに気付いた。また、誰かに庇われて、傷付けてしまった。命を落とすのは私だけでいい。私がいなければ家族も、善逸さんもこんな目に遭うことはなかった。それなのに、真っ直ぐ走る先を見据えながら私に告げてくれた言葉に胸が締め付けられる。

「いい加減諦めろ、人間ごときがァ!」
「、っうわ!!」

今度は避けることができなかったのか、体勢を崩した善逸さんが私を庇いながら泥濘んだ地面に転げ回る。

「大丈夫?ちゃん」
「あの、本当に、大丈夫です。私は貴方に守られるような人間ではありません、そんな価値ありません」
「本人がそう言ってるぞ〜」

下になっている私に身体を起こし、顔を上げた善逸さんの身体は泥だらけだ。腕だって、やっぱり黄色い羽織に赤い血がどくどくと滲んでいっている。
重々しく草むらを踏みつける足音がどんどん近づいて来る。早く、早く逃げてほしい。

「稀血はなァ、鬼に食べられてこそ価値のある人間となる」
「……、」
「お前さえいりゃあそのヘタレ野郎も見逃してやるよ、よかったなァ、お前の価値、めちゃくちゃあるぞ」

稀血に生まれたくて、生まれたわけじゃない。鬼に狙われる為に生きてきたわけではないのに、この鬼の言っている通りだった。私がいなくなることが一番、誰にも迷惑をかけない。降りしきる雨に紛れて、頬に水滴が伝った。

「……よ」
「……あ?」

色んな感情がせめぎあって、胸が詰まって、何か言葉を発そうとしても上手く声にならなくて。手のひらに爪が食い込むほど拳を握りしめていると、低い声でぽそりと呟きながら善逸さんが私の上から退いた。
漸く、逃げてくれるつもりになったのだろうかと思ったけれど、違った。

「取り消せよ」

聞いたこともない、圧のある声に身体が硬直する。
善逸さんはすぐそこまで来ていた鬼の前に、私を背にして立ちはだかっていた。

「なんだ、ヘタレって言ったことか?」
「違う。彼女を、鬼に食べられて価値のある人間だと言ったことだよ」

心底面倒臭そうにする鬼に、善逸さんは真っ向から私の存在を否定してくれている。
敵うわけはないのに。私を庇う人は今まで、みんな目の前からいなくなってしまったのに。嬉しいと思うよりも、このままでは善逸さんまでいなくなってしまうことに怯えて身体を起こせば、鬼と対峙したままの善逸さんが私を制するように手のひらを向ける。

ちゃんは動かないで」
「、あの、」
「それから、俺も隠しててごめん。鬼のことなんて話して、怖がらせたくなくて」
「……あァ?お前隊士か。ハッ、ピーピー逃げ回ってたお前に何ができんだよ」
「もう逃げない」

水を随分吸ってしまった泥だらけの羽織を脱ぎ捨てた後ろ姿。空がピカッと光ると同時に私の前にはっきりと映し出されたのは、“滅”の一文字だった。

「何を今更。お前、怖いんだろ、逃げ出したいんだろ。死にたくねェならその稀血置いてお前は逃げればいいだろ」
「ああ、お前たちと出くわす時はいつも怖いさ。死にたくないさ」

善逸さんは、鬼殺隊の人だったのだ。どうして気付かなかったのかは、分かりきっていた。善逸さんが身に纏う雰囲気は鬼のことなんてまるで知らないような、普通の人だったから。だから、家族といた時のような日々を過ごせていた。最後に幸せを、沢山もらったつもりでいた。
腰に携えてる、私には偽物だと話していた刀を手にする。

「でも、大切な人がいなくなるのは死ぬことよりももっと怖い」

善逸さんにとって、私はどういう人間なのかわからなかった。庇うような人間でもないのに、どうしてそこまでしてくれるのか疑問に思っていた私の思考はその言葉だけで、心に覆っていた雲が流されていくようだった。

「後ろガラ空きだぞ」
「、!」

ただそのやり取りを見ているだけの私に、横から草木に紛れて鬼の手が襲ってきた。来るであろう衝撃に思わず目を瞑り固まっていると、ザンっと斬れる音が耳に鳴る。それからすぐに、近くで雷が落ちた音がした。
恐る恐る瞼を上げると、視界に映ったのはおそらく私へ伸びた手を斬った残骸と、それから宙を飛んでいる鬼の頸だった。

「わからないのか、彼女には髪の毛一本触れさせないって言ってんだよ」

何が起こったのかわからないまま、一瞬の内に自分の頸を斬られた鬼は漸くそのことを理解し喚き散らしている。けれどその喚きすら、塵となって靄がかかる霧の中に消えていった。
呆然としている私に、善逸さんは向けていた背をくるりと回転させ私に駆け寄る。

ちゃん、怪我ない!?」
「……」
「え、え?涙、え、泣いてる?ごめんやっぱり無傷なわけはないよね転がったもんね!?ごめんね俺あいつの言ってた通り本当ヘタレで、」
「そんなことないです」

私の目が赤く充血していることに気付いてか、自分の怪我のことなんて構わずに私の心配をする善逸さんの手をとった。

「強くて、優しくて、……私にとっても、大事な、大切な方なんです」

嗚咽を漏らしながら、声を振り絞った。
善逸さんが言ってくれたのと同じで、私も善逸さんがいなくなってしまうのは死ぬことよりももっと怖かった。
子供のようにしゃくり上げて泣く私の手が、そっと握り返される。

「あのさ、ちゃんさえ良ければ、これから一緒に住まない?何人かいるから、あの小屋よりちょっと騒がしいと思うけど」
「……」
「ああ、ていうか、駄目と言われてももう俺、決めてるんだよね」

眉を下げて笑う善逸さんの後ろから、温かな光が差す。
泣き止むこともできずに、けれど肯定の意を込めて善逸さんの胸元へと額をコツン、とくっつけた。

雷は虹の兆し