悲嘆の雨
見たことのない表情だった。無一郎くんは目を丸くして、拳を握りしめていた。椅子から立ち上がって震えるように私を見ている。「どこにいるの、そいつ」
「そいつって…、家はわからないの、外れの方とは言ってたけど…」
様子がおかしいのは私でもわかった。無一郎くんは私の側まで歩を進める。その威圧感に後退るけれど、小雨を通す開いたままの窓の前で腕を掴まれてしまった。
「教えて。俺が初めてこの店に来た時、そいつはどうしてた」
「……無一郎くんが来た時は、丁度休憩に出てて、入れ替わるように帰ってきて、でもすぐに、頭が痛いって…」
「その時、何か言ってた?」
まるで尋問されているようだった。さっきまでの、いつもの無一郎くんじゃなくて別の人のように見えて。掴まれている腕に段々と力が込められていくのが伝わってくる。
目の前のことに戸惑いながら、必死にあの日のことを思い出していた。
確か、日を避けながらお店に入るなり、顔を抑えていた。顔というか、鼻あたりかも。
「匂いがどうたらって、言っていたかも…っ、」
「鬼だよ」
「へ…」
ぐ、と腕を掴む手の力が強くなった。鬼って、いや。
何を言っているのか理解できずに言葉が出ずにいると無一郎くんはある場所へ目を向けた。仲居さんが使っていた、大きい傘だ。
「光が全く差し込んでこなかったよね、あの傘」
「うん、すごくいい傘みたいだね…」
「いつもあれ使ってたんでしょ、その”仲居さん”」
「……肌が、日に弱いって」
ここで働かせてくださいませんかって、尋ねて来たのは夜だった。遠い町で人に売られそうになるところを逃げて来たって言っていた。二年前くらいのことで。
お母さんがいなくなってお店を手伝い始めてすぐだった。けど、肌が極端に日に弱いらしくてお店にはいつもあの大きい傘をさして来た。外の掃除も私が担当していた。
「日に当たると焼け死ぬんだよ」
「……」
「藤の花も、奴らにとっては毒」
見たことのない真剣な表情に声、手の力の入りように嘘だとは思えない。でも、私には仲居さんが鬼だとも思えなかった。何も悪いことをしていないのに、悪い人のように言われてしまうのがただ、哀しかった。
「知らないと思うけど、隣町じゃ行方不明者がでてる」
「え…」
「俺がこの町に来てから。これは憶測だけど、を食べたいのに食べれなくなった腹いせ。そういうことしかしない奴らなんだよ」
言っていることは、理解できた。無一郎くんの言っていることには、その鬼っていうものが存在するのなら、仲居さんがしていた行動はそれに当てはまってしまう。けれど、鬼じゃなくて、ただ本当にあの時体調を崩して、日にも弱いだけだったら?食べるとか、そんな。
「が大きくなるの待ってたんだよ。近付いたのは他の鬼にとられないようにする為。鬼は群れないから。そんな鬼何体も見てきた」
「……何、言ってるの…?」
「殺されるから。そいつに」
「悪く言わないで…」
目を伏せて、呟いた。面と向かっては、言えなくて。そんな、仲居さんに私が殺される?ない、そんなのあり得ない。そんなの信じたくない。きっと、勘違いなんだよ。
「死ぬんだって。二度と近付いたら駄目だよ」
「何でそんなこと言うの」
「心配だからしかないでしょ、信じて」
「でも、私が何もできなくてお客さん怒らせちゃった時助けてくれたし、初めて魚焼いて火傷した時もすごく心配してくれたんだよ」
「家畜だから。偽物なんだよ、そんな優しさ」
嘘だ。絶対嘘。一緒に笑って泣いて、夜お泊まり会とかだってして髪も結ってくれて。それが全部、偽物だったなんて。そんなの、信じたくない。
「か、考えすぎだよ。そんなことないよ。だから、悪く言わないで」
「違う、考え過ぎじゃない」
「大丈夫だよ、きっとすぐまた良くなって、戻ってきてくれたら無一郎くんとも仲良く、」
「鬼と仲良くなんてできるわけないし、戻ってもこない。俺が頸を斬る」
「そっ、そんなことしないで…!」
私の言うこと、全部否定される。どうしてそんなに、私が一緒にいた人のことを否定されなきゃならないの。わからない。私は、ただ、今まで通りにしていたいだけなのに。無一郎くんの向こう側に飾ってある千羽鶴が目に入る。
「鶴だって、こうして千羽…」
「そんなの必要ない」
「そんなのって……」
「そいつの特徴は、」
「わからないでしょ!」
無一郎くんの言葉を遮って、思わず大声を出してしまった。沈黙が続いて、妙に外の雨の音が響いた。
「私の方が、長くいるもん。長くいるからわかるもん、鬼じゃないよ」
「……」
「今の無一郎くん、変だよ」
そう、きっと、熱があるんだ。だってこんなことを言う人じゃない。仲居さんも信じたいし、無一郎くんだって信じたいよ、私は。
「自分の大切な人のことは、そうであってほしいって、信じたいよ」
目は、ずっと合わせられなかった。だから無一郎くんが今どんな表情をしているかはわからない。その代わり、掴まれていた腕の力が徐々に弱くなって、そっと放れたのが視界の隅に映った。
「わかった」
呟くような、それでも芯の通ったような声に顔を上げた時には、もう遅かった。私に背中を向けて、降り頻る雨の中一人出て行ってしまった。