紆余曲折

さよならの合図

恐怖に怯えながら薄れていく意識の中、名前を呼ばれてすぐ、苦しさから解放されたのがわかった。

「うっゲホッ…、ゲホッ」

地面に足がついて、蹲りながら自分の首を抑えて息を整える。目の前に落ちている腕に、また背筋の凍るような恐怖が襲ってくる。

「チッ鬼狩りィ…!!」

ぞくりとする、もう私の知っているものではない悍ましい声が聞こえて身を凍らせた。動けない、怖い。立ち上がれずにいると誰かに前方から抱えられて勢いのままその化け物から距離を取らされた。

「……無一郎、く…」

私を降ろしたその人へ顔を上げると、私をちら、と見てすぐにその化け物を見据えていた。その手には真剣。本物なんて見たことがない私は白く光るそれに肩を震わせた。
鬼であることも、頸を切ると言っていたのも頭には入っているのに、目の前で繰り広げられるそれに理解が追いつかなかった。

「寄越せクソガキィ、そいつはアタシの獲物だ」
「鬼狩りにそんなこと言ってはいその通りにします、なんて言うと思ってんの?」
「ハッ、戯言を。アタシはなあ、このかたほとんど稀血しか喰ってないんだよ、それがどれだけ強いと思うかわかるか?稀血を喰えば喰うほど鬼としての存在を消せる。人間に擬態すらできるようになった」
「隣町の行方不明者もお前なんだろ」
「ああ、腹いせよ腹いせ。あんたが稀血に藤の花なんて持たせるから。けどぜんっぜん手がかり見つからなかったでしょ、アタシ、人間のここ、いじれるんだよねえ」

何を話しているのか、意味がわからない。ついていけない。ただただそのやりとりを見ていることしかできなかった。それに、今自分の頭を指したあの化け物…鬼の手も、斬られたはずなのに戻っている。なんなの、あれ。

チャンに手紙出した人間も、そのこともう覚えてないと思うわ」

今のだけ口調も声も、私に向けてだった。仲居さんの声だった。けれど見た目は全然違う。私を見てにこりと気味の悪い笑顔を作るそいつに血の気が引いた。

「通りかかった人間をうま~く、絶妙に操作すれば、町に一歩も入らずに人だけいなくなる現象が起こせるのよ。便利でしょう?まあ、稀血以外に興味ないからちょっと喰うだけだけど。あ、チャンは好き嫌いしなくてえらかったねえ」
「ああ、そう。の側にはいたいから俺たちに怪しまれないようの町では何もしてなかったわけね」
「頭の回転早いのね坊や。隣町でそんなことがあればあんた達そっちで手一杯になるでしょ?鬼の存在なんて信じない馬鹿どもだからその内藤の花なんて持たなくだろうと思ってたのに、いつまで経っても手放さないから、もう食ってやろうと思った……の!!」
「!」

気付けば、私の首を掴んでいた手がまたこちらまで伸びてきて、その気味の悪さに身動きの取れない私は目を瞑るとザンッと音がして何かが落ちる音がした。それと同時に顔にビシャリと飛沫のようなものが飛んでくる。目を開けると、目の前には腕が落ちていて。まただ。顔に手をあてて、かかったものを見ると、それは血だった。

「あら中々早いのね、身体が小さいからかしら?」
「舐めてると足元すくわれるよ」
「生意気なガキ。ほんっと、ちゃんは馬鹿みたいにいい子で助かったわ。あと二年くらい待ちたかったけど、ここで美味しく頂いちゃうわね?」

この血は、多分鬼の血で。周りに飛んだその血の量は、普通ならもう死んでしまうんじゃないかというほどなのに、蚊に刺されただけのようななんてことのない顔をしている。
私は、このなんてことのない顔に、二年も騙され続けていたんだろうか。ずっと、馬鹿だなと思って、私の隣にいたんだろうか。あんな姿の鬼が、ずっと側にいたんだろうか。怖い、あんなの、あんな存在、信じたくもない。腕が、また再生していく。

「よく喋るね、普段一人だから寂しいの?可哀想に。ああ、それとももう今際の際って覚悟してるからか」
「ハア?死ぬのはお前らだよ。まず、アタシがお前を溺死にする。それからその稀血を取り込んで、お前のここを弄って鬼狩りの頭の場所を突き止める。あと一匹稀血を喰えば隊士の頭だって操作できるはず。そうすれば私もあのお方に認められる…!」
「随分とおめでたい頭の作りをしてるんだね、さすが鬼だ。根拠もなくそんなこと思える頭の作りが羨ましいよ、単細胞」

私は、ここで、あの鬼に食べられて死ぬんだろうか。さっきから、恐怖しか襲ってこない。この状況を理解することを頭が拒否している。逃げたくても足が、全身が震えて立ち上がることさえできない。しとしとと降る雨が薄暗い辺りの空気を濁らせる。

「さ、お前みたいなガキがアタシに勝てるわけないんだから、さっさと寄越しな。精々稀血の人間に藤の毒を渡すことくらいしかできないだろうが、見習いが」
「俺が見習いならその”頭”の拠点なんて知らないと思うけど、やっぱり馬鹿なんだね」
「アタシはなあ、大人だから挑発にはのらないんだよ。さあチャン?怖くないからね、チャンは私の中で一生生きてられるからね、お母さんと一緒に」
「……へ」

何も理解したくなかった。頭の中が悲鳴をあげていた。それなのに、お母さんという言葉を口にされて、そんな悲鳴も止まり、思考回路が停止した。お母さんと、一緒に、って?

「あ~いいねえその絶望した顔。もうちょっと待ってれば本当にお母さんそっくりになってたかもしれないねえ、稀血ってのは遺伝か?」

お母さんは、崖から落ちてしまったんだ。崖から落ちたから、お母さんだという証拠は着物くらいしかなかったんだ。見るも無惨な姿で。お父さんと探しに行った時、そうだったんだ。それが、本当はこの鬼に襲われた?
戻ってきた呼吸が、また荒くなっていく。やだ、そんなの、嫌だ。

「お喋りはこれで終わり、さあおいで。ずっとお母さんと一緒に、…」
「触るな」

頭を抱えて現実を受け入れないでいると、血が辺りに飛び散ったのが視界に映った。雨の中、血が混ざるその光景の先で、さっきまで気味悪く笑っていたその顔は、頸から刎ねられていた。

「……え?なん…、?」
「足元すくわれるって言ったよね。俺、柱なんだ」
「柱…まさか、こんなガキが…!!」

血飛沫をあげているのに、その身が消えるまで罵詈雑言を浴びせている姿を凝視していた。最後の最後に、瞳だけ残った時、こっちに目を向けられた。多分、憎悪だった。それに酷く身の毛がよだった。もう、あの仲居さんは、いない。

「大丈、」
「!」

血が付いたままの刀を片手に私へと歩み寄り、突然話しかけられた私は言葉通り怯えてしまった。刀を持つ無一郎くんを見上げる。

「……大丈夫ならいいよ」
「……」

刀の血を振り払って、金属音を鳴らしてその重々しい刀を鞘に収めた。その傍で、薄暗かった辺りを日の光が差し込む。雨が上がった。逆光で無一郎くんの表情がわからない。
立ち上がれない私に無一郎くんは特に何をするでもなかった。

「それ持ってればもう近付いてくることもないし、稀血だともわからないと思うから」
「…、」
「……色々、ありがとう。じゃあね」

そう告げて、一瞬でその場からいなくなってしまった。しばらくその場所を呆然と見つめながら、自分がしてしまった事を徐々に理解した。私は、どれだけ彼を傷つけてしまったのか。明るい日差しが降り注いで周りの地面が乾いていくのとは対称に、私にはそんな権利なんて微塵もないのに、止まらない涙が地面を濡らしていった。


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