花灯り

通知欄のメッセージに並ぶ名前の一つを目にして焦燥感に駆られたのは一瞬であった。

「で、別れたの?」
「ああ、それが彼女の願いだったからな」

彼女からのメッセージへは俺も一言『わかった』とだけ返した。そのメッセージを彼女が見た痕跡は今もないままだ。
『別れるから』と、その文字を見て安堵を覚えてしまうほどには、潮時だったのかもしれない。いや、向こうからしてみれば潮時はとっくの昔だったのかもしれないが。
いきつけだと言っていた風情のある店、真正面に座り“あの頃”と変わらず酒を嗜む宇髄は首をポキポキと鳴らしながら呟いた。

「願いって……お前案外ドライだよな」
「惨めったらしい真似をしないだけだ」
「好きじゃなかったんだろ」
「そんなことは……ない」
「間」

高校の教師を目指し教育大学に入ってすぐ、気怠げに新入生を出迎えていた人間がこの男、宇髄だった。お互い目を合わせて数秒固まり、ぽそりとこの世界では教えたはずもない名前を呼ばれ、俺も宇髄の名を呼んだ。声がデカすぎるとことさら顔を引きつらせていたのは今も鮮明に覚えている。

「で、どーだった。教育実習」
「ああ!やはり大正時代に俺たちが鬼殺隊だったのは事実だろう!」
「いやお前何しに行ったんだよ」
「中等部には竈門少年や黄色い少年、猪頭少年もいた!」
「まいるけどよ……」
「だから俺が探している彼女もいるに違いない!」

今日、宇髄が俺を呼び出したのは教育実習の慰労を兼ねてだった。すでにキメツ学園で教師をしている宇髄が顔を利かせたおかげで、俺はまた“あの頃”と変わらない顔ぶれに出会うことができた。記憶の中の時代のことをお互いにこうして話せる人間は宇髄しかいないのではあるが。
揚々と答えた俺に宇髄は短く息を吐く。

「んなもんわかんねーだろ。そもそも俺もお前も薄っすら記憶があるだけ。本当にあったことかなんて誰にもわかんねーし。お前の大好きな歴史の教科書に『大正時代まで人喰い鬼がいた』なんて記述があるか?」
「一文字足りともないな」

記憶は確かに曖昧だ。だが、その中でも、たとえ顔も名前も靄がかかっていたとしても、俺にとって何より大切な存在がいた。時折夢の中にも出てくるその彼女は、桜の木の下、吹雪のように舞う桜のせいで顔も姿もわからない。何一つ彼女との思い出というものも覚えてはいないが、その存在だけは確かにそこにあった。そう感じている。

「つーか、だから今までの女は本気で付き合えなかったわけか」
「それは誤解だ。そんな無粋な真似はしない。彼女のことを忘れたことはないが、本気で向き合っていた」
「まあどうでもいいけどよ」
「どうでもいいとはなんだ」
「今は大正じゃねーぞ」

いつまで過去に囚われている。ぴしゃりと放たれた言葉と同時にその瞳が物語っていた。
理解はしている。だが、納得ができるかはまた別の話だった。これほどまでに譲れない部分であるのかは自分としても不思議でならなかったが、どうしても、彼女のことが知りたかった。
とは言え、他人からしてみれば妙な話だと一蹴してしまえる朧げなものだ。否定はしないまでも、“誰か”に囚われている俺を気にかけているのだろう。目の前で宇髄は最後の酒を一口飲み立ち上がった。

「今日は奢り」
「毎度ありがたい!」
「お前の初任給は全部俺な」
「それはキツイな!」

今日は、ではなく今日も、の誤りだがなるほど、そういうことだったらしい。
今度会うのは採用試験に受かった時な、と、暗闇を知らない雑踏の中へ消えていった宇髄を見送った。今日は金曜日だ、彼の夜は長いのだろう。終電間際の電車に乗り込み帰路に就いた。
その日も夢を見た。ひらひらと薄紅色の桜が舞っている中で見えた彼女のその口元は、仄かに笑っているようだった。
桜の木は、大学にもある。生憎今は緑豊かではあるが毎年春になれば新入生の絶好の撮影スポットとなっている。
オープンキャンパスの手伝いで土曜日である今日もそこへ向かっていた。微風に揺れる葉が乾いた音を鳴らす。葉の隙間から時折漏れる木漏れ日に目を晦ます。一度瞳を閉じてその音だけを感じ取っていた。


──カシャ

「……?」
「あ、すみません、あなたを撮ったわけではないんです、桜の木を……」

不意に鳴った、この場にそぐわない機械音。音のした方へと視線を向ければ、一人女の子が携帯を構えながら立っていた。

「……」
「本当ですよ?ほら……」
「……」
「あのほら、桜、すごいんですよね?来年の春に見れたらいいんですけど、ここ偏差値高いから……願掛けのような感じで」

反応を示さない俺にその子は今しがた撮ったであろう写真を見せる。
示さない、いや、示せなかった。
受かるといいな、と苦笑している彼女を、俺は知っている。会ったこともないはずなのに、どうしてか記憶上ではもう少し大人びていたはずだとか、そんなことまで、ここに来て記憶の奥底に沈んでいた何かが掘り起こされる感覚だった。


「え?」

呼びかけたわけではない。無意識に呟いた名前だった。
だがその名前を口にした途端、退いて欲しかった靄が全て綺麗に風へ運ばれていく。知りたかった彼女との思い出が脳裏に浮かび上がってくる。
名前、どうして、と、困惑している彼女の声が耳を通り抜けていく。
ああ、宇髄。君は本当に正しい。本当にあったことかもわからない記憶のことなんて気にせずに今を生きるべきだと、俺も心からそう思う。俺のことを知らない彼女でよかったと、心から思った。
──否、もしかすると、近い未来に知るのかもしれないが。

「あの、えっ」

少し後ろにいた彼女の元まで歩み寄り、携帯ごと手をとる。丸い瞳に映った俺は、笑ってしまうくらい穏やかな顔だった。
柔く暖かい、そんな幸せがあった。確かに幸せだと、そう感じていた。だからこそ、今度は。

「俺が君のことを幸せにする」

来年の春も、再来年の春も、これからはずっと、君と桜を見よう。



花吹雪