花灯り

幸せ落ちる

些細なことで喧嘩をしてしまった。だから、今日は彼が好きなさつまいものお味噌汁を作って帰りを待っていた。

──俺が君のことを幸せにする

出会い頭に突然、前触れもなく告げられたあれはなんだったのだろうかとベランダへ出て夜風にあたりながら思い出していた。
私が言ってしまうのはどの立場からだと複雑な心境ではあるけれど、幸せにしてくれるのであれば喧嘩はご法度だと思う。
ただ喧嘩と一口にいっても、怒鳴り声が飛び散るようなものではない。どちらも折れることはできないけれど鬱々とした状態を続けたいわけでもなく、心地の悪い気まずさだけが私とあの人の間に流れていた。
普段、彼が怒ることは稀であるけれど、和解はしていない。譲れない部分だったのかもしれないと思うけど、私にも譲れなかった。
息を小さく吐きながらベランダの塀に手を置き夜空を眺める。街灯や周りのマンションの明るさに星はあまり見えないけれど、きっと見えないだけで本当は無数の星々が空に散っているのだろう。
そろそろ帰ってくる時間だけれど、未だこの気まずさは拭えずにどうしたらいいのかと頭を悩ませる。
生温かい風に髪を揺らしながら、帰ってきたらまずなんと言おうかと思考する為瞳を閉じた。
開口一番に昨日のことですが、なんて、それは更に怒りを募らせてしまうだけだろうか。だったら、今日はさつまいものお味噌汁ですよ、とかがいいのだろうか。
でもそれだと、まるで私が許しを乞いているようで、そうなってしまえば不本意ではある。ただ、きっと疲れて帰ってきているのは間違いはないから、食事くらいは喧嘩中であることを一先ず傍に置き楽しんでもらいたい。その気持ちは十二分にある。角が立たないように、でも昨日の件はまた別の話だと、まず扉が開いて彼を目にしたら伝えること。それは。
熟考して気が付いた。それは昨日のことでも今日のことでもない。まず彼に言わなければいけない一番の言葉がある。
心に留めて、そういえばお味噌汁が吹きこぼれてしまっていないだろうかと、我に返り瞼を開けた。

「……、え」

思わず瞬きを繰り返す。さっきまで見ていた夜空が、私が瞳を閉じていたものの少しの間に数え切れないほどの星々が眩く散りばめられている燦然たる空となっていた。
一体どういうことなのか。暫く時間も忘れてその光景に魅入ってしまった後、今日は今世紀最大の星降る夜の日でもあったのかと、あの人も帰路へ就く間、同じ空を見上げていないだろうかと携帯を手にする為部屋へ戻ろうと踵を返したところで、身体が硬直した。

まるで、知らない場所。

今の今まで私はマンションのベランダで外の空気を吸いながら思い馳せていたはずであるのに、ここは上層階でもない、そして、私の知るマンションもない。
頭が追いつかずに首だけぎこちなく動かして辺りに視線を彷徨わせる。
すぐそこの足元には水面に月を映し出した立派な造りの池に、派手な模様とは裏腹に優雅にゆったりと錦鯉が泳いでいた。
ヒラヒラとその池へ舞い散るように落ちて浮かぶのは紅く染まった葉。こんなに風情のある壮麗なお庭は、マンションの近くにあっただろうか。いや、そもそも、私が住んでいたマンションはどこに行ってしまったのか。私がどこかへ行ってしまったのか、頭が回らない。

「ど、どなたですか……」

マンションから落ちて、頭でも打ってしまったのだろうか。であればここは、死後の世界ということになる。でも、こんなにハッキリと意識があって池の水の冷たさも感じるものなのだろうか。死んだことなんてないから正解なんてわからないのだけれど。
ポチャン、と音を立てながら足元の池へ手を浸らせて固まっていると、不意に聞こえた声に肩を揺らす。誰かがいたことに安堵しつつ、更には聞き覚えのある声で藁にもすがる思いでそちらを見ればやはりそうだった。

「千寿郎くん」
「……、?」

兄と瓜二つ、最も雰囲気はまるで正反対の柔らかい子であるけれど、眉の下がったその姿にほっと胸を撫で下ろした。
立ち上がり千寿郎くんの元へ歩み寄りながら、後ろには立派な日本家屋が建てられていたことに気付く。疑問は尽きないけれど、一先ずは見知った人と出会えたことに不安はそれなりに払拭された。

「ここ、どこだろう?夢なのかな」

夢の中で夢と気付いたのであれば、普通は現実に戻るのが一般的だとは思うのだけれど、妙にリアルさが残っている。それと、私を不思議そうな顔で見つめる千寿郎くんの着ている衣服にも少々頭が捻る。
そんな服、持っていたのかと新たな一面に意外だと感じながら、お父さんは剣道道場を、お母さんは書道教室を営んでいるからこうして袴を履いていてもおかしいことはないかと改める。
むしろ私の方が、この澄んだ空気に眩い星空、歴史を感じる立派なお屋敷が聳える雰囲気に溶け込めず、場違いであると告げられているような気さえした。

「ここは、煉獄家ですが……」
「……?そう、なんだ」

何はともあれ、夢以外の何物でもないだろう。夢の世界のここは、千寿郎くん曰く煉獄家であるらしい。
夢はその人の潜在意識が影響しているとよく聞くけれど、私は煉獄家に自分の知らない内にこのような印象を抱いていたのだろうか。似合うといえば、とてもよく似合う。
彼は凛としていて熱くて忠直な人で、話し方も振る舞いも全て典型的な日本男児だ。それは、一昔前の、ではあるけれど。
今の日本男児というものを表すのであればそれは杏寿郎さんには当てはまらないな、と、今時珍しいタイプの人だとは思う。でもそんな彼が好きで、愛おしくて、いつまでも寄り添って生きていきたくて。
そうだ、早く起きないと、彼の為に作ったさつまいものお味噌汁が吹きこぼれてしまう。不安そうな眼差しを私へ向ける千寿郎くんへ聞いたところで、答えを知っているかはわからないけれど。

「私、どうしたら帰れるかな」

頬をかきながら、苦笑いを浮かべる。潜在意識の中の千寿郎くんが私に教えてくれるだろうか。ゲームでよくあるように、私の中でお助けキャラクターとして現れてくれたのであれば、きっとヒントはくれると思うのだけれど、夢の中も現実のように甘くはなかったらしい。

「迷われたのですか?」
「迷った、というか……」
「どこから来たのですか?」
「どこから……?世田谷のマンションにいたはずなんだけどね……」

ヒントは与えてはくれないけれど、千寿郎くんは真摯に向き合ってくれる。夢の中であっても優しいところは彼そっくりだ。
私の言葉に千寿郎くんは傾げていた首を更に傾けて怪訝な表情を浮かべる。その様子になんだか胸が嫌な音を鳴らしてしまいそうになるけれど、あくまでもこれは夢。額から薄っすらと滲み出てきそうな汗も気のせいだろう。

「せたがや……まんしょん……?」
「……うん」
「どこか、遠いところから来たのですか……?あなたの着ている衣服も、この辺りでは見かけませんし」
「…………」
「それと、どうして私の名前を知っているのでしょうか?」

控えめに、けれども千寿郎くんの眼差しは心配の中に私を訝しんでいるような瞳が混ざっているのだと漸く気が付いた。
こんなにも、人の眼差し、表情が鮮明にわかるようなものなのだろうか。
夢の中の千寿郎くんは、私のことを知らない。世田谷という地名も知らない。マンションというワードも今初めて聞いたような反応だった。これではまるで、私が異世界へ来てしまったようだ。私の知っている人が住む、私の知らない世界。
いや、そんなことあるはずがないと言い聞かせたい。そんな、非現実なことが自分の身に起こるなんて考えられない。

「お願い、教えて……!」
「っ?」

急に身の毛がよだった私は縋り付くように千寿郎くんの両肩を掴んで詰め寄った。
感触はしっかりとあるのがまた恐怖を募らせた。知っている人であるはずなのに、知らない人なのが、一向にこの世界から立ち去れないことが怖い。

「どうしたら夢から醒める?」
「あ、あの」
「戻りたいの、ここは私の居場所じゃないの」
「お、落ち着いてくださ、」
「あの人、一人になっちゃう」

おかしな話だ。このまま目が覚めなかったら一人になるのは私の方ではあるのに、もう会えなかったら、あの人は一人になってしまうと取り乱していた。
大事に、大切に、心から愛してくれているのが伝わるから、だからこそ。

「帰りたいの!」
「今帰ったぞ!」

皺ができてしまいそうなほどに肩口をぐしゃりと掴んでなりふり構わず切な思いを口にすれば、音もなく頭上から突如降りかかった声に身体が止まる。
夢から醒めたら、私が一番に会いたい人。
この世界の人ではないのに、鮮明に私の耳に響いた凛々しい声に胸が詰まる。震えながら、恐る恐る私に影を落とすその人へ顔を上げた。
勝気な表情を浮かべながら口角を上げて、私を真っ直ぐに見下ろす紅くて熱いその瞳に言葉がでなかった。
生温かったはずの風は湿り気も無く乾いていて、鮮彩な髪が軽やかに横に靡く。そんな穏やかな空気の中で、私の胸はどくどくと嫌な音が鳴り続いていた。
瞬きをすることも忘れてしまうほどに目を見張る私とその人の間に、色濃く染まった葉がひらひらと舞う。

「客人か?俺は煉獄杏寿郎だ!」

ええ、知っていますとも。だって、私はあなたの恋人なのだから。
威風堂々とした姿も芯の強さを感じさせる声もそのままであるのに、初対面であるかのようにその名を告げられ、私の知っている愛しい人はここにはいないのだと知らしめられる。
夢ならば早く醒めてほしい。
これほどまでに、この人の後ろで眩い光を放つ夜空の星々に願ったことはない。