満ちない夢のまま
まるで私だけが取り残されて、刻々と流れ行く時間に置いていかれるような感覚だった。薄く開いたままの口も塞がらず、ただただ愛しい人を凝視していることしかできない。
鮮明に私の視界に映るこの世界が幻想でしかない。そう思いたい。それなのにどうして、こんなにも意識ははっきりとあって、肩口の長着を掴む感触はしっかりとあって、胸が苦しくなるのだろうか。
「君は?千寿郎の友人か?」
「あ、いえ兄上」
「違うのか?」
嫌な汗さえ爽快に吹き飛ばしてしまいそうな風が吹く。けれど私は呼吸も徐々に浅くなり、風情ある穏やかで優美な世界が恐怖で仕方なかった。
硬直している私には特に気にも止めず、二人は会話を続ける。首を横に振った千寿郎くんと、千寿郎くんに詰め寄っていた私を杏寿郎さんは交互に視線を配る。それから何かを理解したかのようになるほど、と顎に手を当て大きく頷いた。
「そういうことか!」
「兄上……?」
「千寿郎も年頃だな」
「えっ、ち、違います兄上!」
「なに、恥じる事はない!一人の女性を愛しく思うことは素晴らしいことだ」
呆然としながらそのやり取りを見ていた私から、千寿郎くんは慌てたように私を押し返し距離をとった。私はといえば、この状況についていくことができずにそれどころでもなかった。
夢だ、これは夢。絶対に醒めることができる。これは現実ではない。全身に募る恐怖を抑えて必死に自分の胸に言い聞かせる。
『違う』『恥じる事ではない』と繰り返されるその会話を傍らに胸に手をあて瞳を閉じる。ゆっくりと深呼吸をすると、身体の芯まで澄み渡るような空気が浸透する。ただし、マンションのベランダで吸う空気よりは随分と清々しい。綺麗な空気とは、こういうことを言うのだとこの身を以て実感できるようなものだった。
「いいではないか!兄として嬉しいぞ!」
「いえ、聞いてください兄上。それにこの方、俺なんかより兄上の方が年齢が近い気がしますし」
「色恋に年など関係ない!」
「…………あの、」
「なんだ!」
待てども待てども、傍で続けられる会話は耳に鳴りっぱなしであった。一度断念してもう一度二人へと、杏寿郎さんへとおずおずと視線を送る。
幾度となく君のことが好きだと降り注がれた声で、千寿郎くんとの仲をとりもつようなことを放たれると、例え夢であっても居心地が悪い。否、夢であるかどうかなんてもう、わからなくなって、混乱しているのだけれど。それでも、私が愛しく思っている人は杏寿郎さんであることは変わらない。
「夕食は済ませたのか?」
「いえ、」
「ならば食べて行くといい!千寿郎!今日は俺が腕を振るおう!」
「そうでなくて、」
「逢瀬を邪魔して悪かったな!」
「違くて」
「代わりに、」
「私が好きなのはあなたです!」
いつまでもお祝い事のような勢いで、自分のペースで話を進めるその人へ思わず声を荒げてしまった。私の夢であるなら、例えば喧嘩してしまったことは都合よく片付いて私に愛を囁いてくれやしないのだろうか。
どこかから細い虫の鳴き声が聞こえてきて辺りがしん、と静まってしまったことに気付く。力が入って握り締めていた手の平を解いた。開いた両手には爪が食い込んでいた跡がほんの少し残っていて痛い。しっかり痛みを感じている。
「そうか。勘違いしてすまない!」
「……、」
一頻り沈黙が続いた後、一番最初にそれを破ったのは杏寿郎さんだった。この杏寿郎さんからしてみたら、きっと私は突拍子もないことを口にしてしまったと思うのに、律儀に謝ってくれるところは私の知る人でしかない。
私を知らない、というところだけの違いであるのだ。
自分の両手に視線を落としていた私は杏寿郎さんと目を合わせる。さっきまでの自分の弟の成長を喜んでいた笑顔はなく、真剣な眼差しを向けられ思わず胸がどくりとはねた。夢の中の表情に一々反応しているほど余裕はないのに、この人を前にしてしまうと上手くはいかない。
「だが俺は君のことが好きではない」
揺るぎない瞳でハッキリと告げられた言葉に、胸がぐしゃりと潰れそうになった。
今まで、嘘でも冗談でも、それこそ夢の中であっても言われたことがなかった。こんな、心臓を抉られるような、悲しみに打ち拉がれてしまうような夢、悪夢でしかない。
ただ、この人はそう、自分の愛する人以外に思いを告げられたら、きっと今のように相手へ一寸の隙も見せずに断るのだろう。
「兄上。きっと、どこかで兄上が助けた方なのではないでしょうか?」
「覚えていないな」
「あ、貴方のお名前は?」
千寿郎くんからしてみれば、不法侵入も甚だしい怪しい来訪者でしかないはずなのに、好きではないときっぱり振られてしまった私の表情を見てか、気を遣ってくれたのだろう。
「……わからない、ですか」
「兄は柱で、沢山の人を助けています。なので、名乗っていただいても全ての人を覚えていることは少々難しく」
柱。助ける。まるでなんの話をしているのか検討もつかない。どうして私の意識の中であるはずなのに、私の知らない話が出てくるのだろう。
そう、そうだ。そもそも夢だから、頭がこんがらがっているのだ。当然だ。
おもむろに辺りを見渡して、立派に聳える屋敷の縁側でちょうど良さそうなものを見つける。
「?あ、あの」
ふらふらと、覚束ない足取りで縁側まで歩き、何年経っているのか傷みも見える側柱へと手で触れる。
拳を握り締めた時に走った痛みでは目は覚めなかった。もっと、この世界で衝撃を受けなくては元に戻れないと思った。愛しい人に、冷たい言葉を放たれたこんな世界から、早く抜け出したかった。早く目覚めて、私はさつまいものお味噌汁を煮立てている火を止めにいかないといけない。痛いのは、きっと一瞬だ。
そう胸に刻み込んで、意を決し瞳を固く閉じる。身体を後ろへと僅かに仰け反らせた後、額を思い切り柱へと衝突させた。
「えっ!?」
「……、?」
いや、できなかった。
私の行動に驚く千寿郎くんの声を最後に、待ち受ける一瞬の激痛を越えれば私の知る風景が待っているはず。そう思っていたのに、額に待っていたのは温かい手の平だった。知っている。この手の平の感触はいやでもわかる。こんなところまで全てが一緒なのに、どうして違うの。
「顔に傷ができるぞ」
ついさっきまで、千寿郎くんの隣で離れた私のことを見据えていたはずであるのに。私がしようとしたことに気付いてか一瞬の内にこちらまで近付き、額から血が流れてしまうのを抑えるように柱と私の額の間に手を入れ意図も簡単に止められてしまった。
「君は俺を探していたのか?」
「…………」
「どこから来た?家まで送ろう」
「……いや」
「?」
「いや!私、帰る、帰ります!!」
このまま浸ってしまいそうになるほどに温かくて優しい手から逃れ、もう一度額を衝突させようと頭を振った。
そうやって、私のことはわからないくせに優しくしないでほしい。自分勝手だと思うけど、自分勝手な夢も見れないこんな世界、もう嫌だった。それなのに、この人は暴れようとする私の動きを封じるように腕を後ろで一纏めにして側柱から遠ざけた。
「気が動転しているのか、休んだ方がいい」
「してません、帰りたいんです!夢から醒めたいんです放してください!」
「夢?」
心臓が煩い。頭もぐわんぐわんと波打つように揺れている。胸も痛い。
言い様のない痛みに全身が震える。
「夢だから、ここは私が見ているただの夢だから、だから帰るんです、私が、私の好きな人が待ってる、」
「…………」
「だから、私、夢……、」
夢の中は、こんなにも言葉を荒げることができるのだろうか。掴まれている腕の感覚がはっきりとするのだろうか。ぐらぐらと頭に熱が篭ってしまうのだろうか。
恐怖と不安で押しつぶされそうになって、目の前が段々と霞んでくる。ああ、やっと、やっとこの世界から解放されるのだ。
「兄上!その方熱があるのではないですか?顔色が!」
次に瞼を閉じれば、きっと私の大好きな人が待ち受けているはず。ぼやけた視界の中で駆け寄ってくる、少し風変わりな千寿郎くんを最後に私の意識は途絶えた。
そういえば、千寿郎くんだけではなくて夢の中の杏寿郎さんもなんだかおかしな格好をしていた気がするけど、それは目が覚めたら、現実の杏寿郎さんに伝えて笑い話にしてしまおう。