心臓はあまりに凍えていた
「可笑しな夢を見ていて」
「可笑しな夢?」
ソファーの上で、杏寿郎さんに寄りかかりながら自分が今まで見ていた夢のことを話していた。ふわふわとして温かいその人の側にいることにひどく安心する。
随分と頭もすっきりとしていて心地が良い。
「まるで、ずっと昔の日本のような光景でした。夜空も綺麗で空気も今よりずっと澄んでいて、それで、そこに私と杏寿郎さんと、千寿郎くんもいて」
「趣き深い夢だな。どこが可笑しな夢だったんだ?」
「だって、杏寿郎さんも千寿郎くんも私のことを知らなかったし、それに杏寿郎さん、酷いこと言うんですよ」
「俺が?何を言ったんだ?」
「『君のことは好きではない』って」
真剣な面持ちで告げられたのは今も耳に残っている。一生涯忘れることもない一言になりそうなほど、私の胸に響いた言葉だった。
「私は好きです。夢の中であっても、杏寿郎さんが」
「ああ、俺も好きだ」
大きな手で頭を撫でられると心がふわふわとくすぐったくなる。
好きではない、なんて、喧嘩をしていたってそんなことは口にしないだろう。いつもいつも私を甘やかして、温もりで包み込んで。でもそれが私には、あなたが我慢をしているようにも見えてしまって。
あれ、そういえば、喧嘩してた一件は、どうしたんだっけ。それと、さつまいものお味噌汁。まだ火を止めていない。いつ止めたのだか記憶が曖昧だ。
「杏寿郎さ、……、?」
忽然と、隣にいたはずの杏寿郎さんの姿が消えた。真っ暗闇の中に私一人がポツンと取り残される。
温もりも消えてしまった。さっきまで私の不安を取り除かせるように包み込んでくれていた彼がどこにもいない。辺りを見渡しても、地平線すら見えない、何もない場所。竦む足を必死に動かして出口を探すけど、思ったように上手く動かない。自分の身体が著しく重くて一歩が遠い。声も上手く出せない。彼の名前を呼ぼうと思っても息がつっかえる。
嫌、離れ離れになりたくない、私はずっとあなたの側にいたい。杏寿郎さん、嫌だ一人にしないで、一人にならないで。
「杏寿郎さん!」
「ああ、起きたか!」
喉の奥でつっかえていた言葉が声となって発せられ、詰まったような感覚も妙に重かった身体も、全て今まで私が見ていたものこそが夢であったのだと意識が徐々に戻ってくる。
ぼんやりとしたまま声の主を見上げると、夢の中でも私に柔らかい笑顔を向けていたその人がいて、寝ていた私の元へ屈むその人の胸へと飛び込んだ。
「杏寿郎さん……、杏寿郎さん」
真冬の雪も溶かしてしまうような体温も匂いも、今しがた私の目の前からいなくなってしまった人だ。ふわふわとなんてしていない、しっかりと彼は今ここにいる。
縋り付くように彼の背中へと腕を回してギュッと温かさに浸っていた。
「怖い夢でも見ていたのか?」
「はい、怖くて、起きてもまた夢で、でも、ちゃんといる……」
不安で押し潰されてしまいそうで、震える私の背中をぽんぽんと優しく撫でてくれた。その温もりにああ、私の愛しい人だと徐々に落ち着きを取り戻していく。
そのお陰で、漸く周りの景色も認識し始めたことで信じたくなかった現実へと突き落とされた。彼の肩の向こうに見える状景は、私が知るマンションの部屋ではない。
二人でこれが良いと決めたカーテンも戸棚の上に飾ってある写真も、短針が数字を刺すと小さい人形が踊り出てくる時計もない。
私が今の今まで、夢だと思っていた世界だ。
鳥の模様が描かれた襖は、私の家ではない。
暗転もしない、意識もしっかりとある。この人をしっかりと抱き締めて、この人も私の背中を支えてくれている。
ゴクリと唾を飲み込んでから、両肩を掴み勢いよく離れた。
「夢、じゃない……」
「ああ、もう夢ではない。現実だ!」
薄く開いた口で小さく呟けば、私を見据えながらきっぱりと、歯切れ良く笑顔で伝えられた。
夢であってほしいと願った世界が、本物の世界なのだと、嫌でも理解するしかなかった。せざるを得なかった。
だって、今見ていた夢の方が都合が良くて、それでも可笑しなことは起きたけど、鮮明な世界ではなかった。私が包み込まれていたのは、杏寿郎さんではなく、ただの布団であったのかと呆れ笑うしかなかった。
「少し暑かったか?薄手でもよかったな」
話しながら、目の前のこの人は私を温めてくれていたであろう布団へと視線を運ばせる。つられるように私もそちらへと視線を送ると、足元の方に寄っていておそらく私が暑苦しいと無意識のままに剥いでしまったのだろうと窺えた。
「熱は?もう大丈夫か?」
「熱……」
「うむ!冷めているな」
会話もままならないままの私の額へと杏寿郎さんは手の平を覆った。温かくて、優しい手つきが気持ちがいい。
呆然としたまま、ぱっちりと瞳を見開くその人を見つめていると、幾らか落ち着いているからか気付かなかったことに追いつきはじめた。
私のことを知っている杏寿郎さんよりも、少しだけ若い気がする。男らしさは変わらないけれど、ほんの少し少年の面影も残したような、そんな雰囲気も纏っていた。
そう、例えるならば大学生の頃の彼のようだ。
「どうした?まだ寝ぼけているのか?」
「……いえ」
「手荒な真似をしてすまなかった」
「……?」
「腕」
まじまじと端正なその顔立ちを眺めていると、杏寿郎さんは首を傾げた後に真剣な面持ちへと戻る。
私の手首をそっととって、私に見せるようにと持ってくる。服の袖から見えたのは、おそらく私が額に衝撃を与えようとしていた時に掴まれた腕の痕だった。
強引に私が解こうとしたから彼もそれを抑えようとして強く掴んでしまったことだから、この人が謝ることではないのに。
「優しいですね」
彼や、千寿郎くんからしてみれば私は勝手に人の家の敷地に入り込んだ不届きものだ。それが二人の名前を知っていたり、突然屋敷の側柱へと額をぶつけようとしたり、それこそ“可笑しな夢に出てくるような人”だ。私の存在が可笑しいのだ。
けれど、どこの誰だかもわからない私をこうして寝かせてくれて、心配までしてくれて。
「乱暴にしたのにか?」
「全然、乱暴なんかじゃありません。ありがとうございます」
信じられないけれど、どこか全く知らない世界に飛ばされたのだとしたら、私のことを知らなくても、この人の元でよかったと心から思う。
こんな人間が目の前に現れたら、それこそ恐怖でしかない。感謝の意を伝えながら私を守ってくれた証である痕を摩った。
「君が寝ている間に千寿郎から話を聞いた」
「……?」
「セタガヤという地名は聞いたことがないが、近々港まで君を送ろう。そこなら知っている人間がいるかもしれない」
「でも、」
「大丈夫だ!君は帰れる」
眠りに落ちる前、私の腕をきつく掴んでいた手で今度はほんの少しだけ強さを伝えるように、けれども優しく両手を握られる。何度も包み込まれたその手はそのままで、胸が和らぐ。
世界には、自分と似ている人が三人いるだなんて話をどこかで聞いた気がする。その類で、この人は名前までも同じなのだけれど、ただ似ている人、というだけなのだろうか。性格まで私の知る煉獄杏寿郎なのに。
底抜けに明るくて誠実な人で、彼の表面だけ見たら声の大きくて正義感の強い熱い人、だなんて印象で染まってしまう気がするけど、本当はもっとずっと思慮深くて聡明な人だ。
「あの、」
「なんだ?」
「ここは日本ではないんですか?」
「日本だ!」
私は海を渡ってここに降り立ったわけではない。飛ばされたというわけでもないのだけど、気付いたらここにいた。
そして、普通に日本語が通じているから海外にいるなどとは最初から思っていなかった。けれどこの人が日本というのであれば、そして世田谷という地名を知らないのであれば、本州ではないどこかなのかもしれないのだと頭が働いていた。
「君は海の向こうの国から来たのか?服が向こうのものにも見える」
「いえ、私は日本にいました」
「そうか。であれば俺が知らないだけで港に行けば解決するだろう!」
ギュ、と私を安心させるように手を握り直す。大丈夫だと言わんばかりのその笑顔に涙が溢れ出そうになる。
港に行けば、解決、するのだろうか。この人を疑うわけではない。でもなぜだか、もう戻ることはできないのではないかと、そんな気がしていた。
ふと、部屋の壁にかけられた紙が視界に入り釘付けになる。
「……ん?ああ、今日の日付か。もう十二時は回っているからこれは昨日だな」
私が凝視している方へと気付き、手を放してからその紙を捲りに立ち上がった。
日めくりカレンダーのようなものだ。その紙に綴られている文字に、今しがた感じていた予感は気のせいではなかったのだと痛感させられた。
あれは、この古風な家なりの飾りであろうのだろうか、いや、もうそんな都合のいい考えなどきっと意味もない。
「明日は担当地区の巡回があるから、港に行くのは明後日……、どうした!」
“大正”
杏寿郎さんは歴史の教師であるから、勿論日本史に詳しい。特に、この時代には思い入れがあるのだと、詳しくは話していなかったけどそう語っていたのは覚えている。もうずっと昔、戦争も革命も大きい災害も流行りの感染病も特にはない時代なのにどうしてなのだろうと思っていたけれど、だからこそこの単語は鮮明に私も覚えている。
「ない」
「ない?何がだ?」
「私の、……かえ、る、場所」
一枚紙を捲って日付を変えた杏寿郎さんが私に振り向き瞳を揺るがせる。
違う、私はあなたを困らせたいわけでは決してない。ないのだけれど、
「絶対、ないんです……っ」
溢れる涙はとどまる事を知らずに温もりの消えた布団を濡らしていった。