神はなくとも火は灯る
大正なんて、遥か昔のことだ。世界で大きな戦争があった時代の少し前。どうして私はこの時代に来てしまったのだろうと、そんな考えが頭に浮かぶようになったのはここへ来て一週間ほど経った頃だった。
まるで魂の入っていない肉体だけの抜け殻のように過ごしていた。今となっては、突然の来訪者にも関わらずそんな私の面倒を見てくれていた二人に感謝しかない。
あの夜は涙がいつまでもいつまでも止まらなくて、かなり煉獄さんを困らせてしまった。
杏寿郎さん、と呼ぶのは控えることにした。この家に住む人はみんな“煉獄”ではあるのだけれど、私としては、私の知らない杏寿郎さんを杏寿郎さんと呼ぶことは憚られた。
日差しが窓の隙間から溢れ、その眩しさに目を覚ました。今日も頭がぼうっとしているのは夢の中の話だから、というわけではなく、枕を涙で濡らしていたからだ。『もう泣くな』なんて、きっと杏寿郎さんがいたら私の頭を撫でながらも呆れていることだろう。
「!おはよう。いい朝だな」
階段を降りて屋敷の広い廊下を歩いていると前方から耳に慣れ親しんだ声が聞こえてくる。
名前を教えることができたのは確か、三日目辺りだ。それも、目の前が真っ暗に感じていた時に条件反射のように自分の名前を呟いただけ。ただ、それからこの人、煉獄さんは屋敷へ帰れば私の元へ町でのお土産や今私が着ている着物まで差し出してくれていた。
「おはようございます」
小さく頭を下げた私に煉獄さんは目を細めて笑った。私が知る人とは別人とは思えないほどに、名前や見た目以外もそのままの“煉獄杏寿郎”だと一緒に過ごせば過ごすほどに肌で感じる。
「だいぶ落ち着いてきたな」
「はい、ありがとうございます」
「もう奇行はやめるように」
「奇行……」
「返事は」
「は、はい」
仄かに香ってくるのは、魚を焼いている匂いだろうか。きっと今日も千寿郎くんが少年とは思えない料理を振舞ってくれているのだろう。
食べないと身体に支障をきたす、と言われ口にその料理が運ばれていた日は微かに覚えている。こんな怪しい人間、家から出して放っておけばいいものの見捨てなかった優しさが痛いほど身に沁みる。
廊下を並んで歩きながら食事の支度がされている部屋へ向かう。至れり尽くせりだ。ここに住まわせてもらっているのだから、私も何かをしないと申し訳が立たない。そんな考えが浮かんでくるほどには煉獄さんの言う通り、随分と落ち着いてきたとは思う。
夜、涙が止まらないのは今も変わらないのだけれど。
奇行、というのは私が縁側の柱へと頭突きを試みたことだろうか。正直、今でも身体に衝撃を刻めば帰れるのではないかと思わなくはないけど、でも多分、意味はないのだと。そんな気もしていた。
隣を歩く彼は、私よりも年はおそらく下なのだろうけど、なんだか肝が座っているというか、かなり精神年齢が高いように見えた。
「あの、」
「なんだ?」
千寿郎くんが設えてくれた朝食を前に、いただきますと手を合わせてから食べ進めた後、お椀を置いて呟いた。
一つ、周りが漸く見えてきて気になることがあった。
歴史は、杏寿郎さんの影響で私もそれなりに齧っている。でも、杏寿郎さんがよく話していたこの時代にはもう侍というものは存在しないはずなのに私の認識と齟齬があった。
朝の日差しにも負けないような瞳と表情を私へ向ける煉獄さん。今はその腰には携えてはいないけれど、彼はいつも家を出る時に刀を持っていた。それもおそらく、真剣だ。
「その、なぜ煉獄さんは刀を持っているのですか?」
ここは本当に、私が知る歴史上の時代なのだろうか。本当にも何も、私が今ここにいるということ自体が奇怪なことであるから何を信じればいいのかもわからないのだけれど。
おずおずと尋ねた私に煉獄さんは笑顔を崩さない。千寿郎くんは不安げに煉獄さんを見つめている。
「鬼を斬る為だ!」
「…………鬼?」
「ああ、鬼だ!鬼は人を喰う」
もしかして、真剣だと思っていたそれは真剣ではないのだろうか。厄除けのような、そういう類の可能性があるのかもしれないと頭を過る。
だったら帯刀が許されていないこの時代でも、お祓いごとに使うものなのであれば咎められることはないのかもしれない。
「さん、私からも質問してもよろしいでしょうか?」
一人それらしい理論を組み立てて納得していると、千寿郎くんが徐に口を開いた。
控えめに、だけどその瞳には本当のことが知りたいと映し出されているように見えた。
「未来から来たと呟いていましたが、その話を詳しくお聞かせ願えますか?」
正気に戻ってきた頃、千寿郎くんの前でそう呟いたような記憶は薄らだけどある。
自分の置かれた状況を受け入れたくはないのに、受け入れ始めていた頃。話しても信じないだろうと、そんなことを思う余裕もなく声に出していた。
置いてもらっている身なのだ。信じてもらえないかもしれないけど、実際に私の身に起こっていることを話すのが道理だ。
「大正時代は、私がいた時代よりもずっと、ずっと遥か昔のことなんです」
私が住んでいたのはこの時代よりも冷たい、鉄とコンクリートの街で、知らない人が家の庭に突然現れようものなら機械を使ってすぐに通報もできて。
空気も澄んでいないし夜空に輝く星は数少ない。どこへ行くにも乗り物があるから不自由はない。けど、多分、今の時代の方が人と人との関わりは温かくて穏やかなのだろうと、この二人を見ていると思う。
ただそんな時代の中でも、私に温もりを与えてくれるその人がいた。
つらつらと自分のいた時代のことを伝えた後、膝の上に置いていた手で拳を握りしめた。
「そこで、私、恋人がいて」
「こいびと?」
「あ、えっと……、その、好きな人、で、その人も私のことを好きでいてくれて……」
千寿郎くんが首を傾げて呟いたので、この時代にはそういう呼称がないのだと悟った。多分、付き合うとかそういう概念がなくて、それは結婚を約束した人同士であるのだ。
一緒に暮らしているけど、杏寿郎さんとは結婚を約束しているわけではない。いずれは、なんて、一端に思い描くことは何度もあったけど。でも思えば、最初に会った言葉、あれは初っ端からプロポーズのようにも思えたかもしれない。幸せにするってそんな、まるで一生を添い遂げるようなことを初対面で口走る勢いの良さには驚いたけど、忘れられない大切な思い出だった。
もう、会うことはできないのだろうか。
「その方が、兄上に似ているのですか?」
「……、」
「違っていたらすみません。兄上のことが好きだとお話しされていたので……」
元いた場所で、杏寿郎さんと過ごしていた日々を思い返して言葉が詰まってしまった私に、千寿郎くんが控えめに声を上げた。
それから煉獄さんへ視線を運べば、さっきまでの笑顔は消えていた。ただ、真っ直ぐに私の言葉を聞いてくれているようだった。その表情にゴクリと唾を飲み込む。
「似ているというか……」
「…………」
「名前も、見た目も雰囲気も、全部、一緒なんです」
似ているその人を前にして目は合わせられず、握りしめた拳に視線を落として震える声を振り絞った。
自分と全く同じ人間が遠い未来に存在しているなんて、にわかに信じられる話ではないだろう。自分でも今言葉にして、その非現実的さに戯言のようだと思う。私だって、私がいた時代で未来からやってきた見知らぬ人にあなたとは未来で恋人です、なんて言われても信じない、というか理解ができない。そもそも、今を生きているこの人たちにそんなことは関係のない話だ。
それでも、信じてくれるだろうか、この人は。
「うむ!」
「兄上、」
「全く意味がわからないな!」
少しだけ、淡い期待を抱いてしまっていた。
優しさに溢れたこの人は私の話を多少なりとも信じてくれるかもしれない、と。でも、ここにいる彼は、私を愛してくれている彼ではない。当然の反応だ。
大きな声ではっきりと告げられ、胸にいやに響いた。
「だが、信じよう」
早く、食事を済ませてこれからのことを考えよう。再びお椀を手にして進めようとしたところ、弱さを見せないその快活な声は部屋に響く。
おずおずと顔を上げると、先ほどの真剣な面持ちから、いつもの何事も見透かしてしまいそうな瞳とぱちっと視線が交わる。
「……信じて、くれるんですか、」
「嘘なのか?」
「いいえ、嘘なんかじゃありません」
一声、幾らか低い声で私を見据えながら聞かれたことに首を横に振った。
この人は、誰であってもこういう話を信じるのだろうか。素直で実直な人だから、不思議ではないし今しがた、もしかしたら信じてくれるかもしれないと思っていたのは私ではあるけれど。
「あの時頭を打っていたら、嘘だと思っていたかもしれないな」
嘘を否定した私に、煉獄さんは柔らかい表情を見せた。
ああ、本当に、この人は私の知る人と同じだ。同じであって違う人だ。
溢れそうになった涙を必死に堪えて、食事にありついた。今日も、きっと美味しいその朝食の味がわかることはなかった。