つたないこころの裏側で
何か、私にできることはないかと千寿郎くんへ尋ねれば、まだ混乱しているでしょうし休んでいてください、と穏やかな声色でそう言われてしまった。とは言え、もう随分と休ませてもらったしこのままでは返って私の居心地が悪かった。だから、私の我儘になってしまうけれど食事の支度くらいは手伝わせて欲しいと頼み込んだ。私が元いた時代の千寿郎くんと変わらず、この時代の千寿郎くんも押しには弱いみたいで私の願いに首を縦に振り聞き入れてくれた。
そうして千寿郎くんと過ごす時間が増えたことで、わかったことがある。
この二人の母親、瑠火さんはもうこの世にはいないということ。
ずっと不思議に思っていた。煉獄さんも千寿郎くんも、私が知っているままであってここも煉獄家と言っていたからには家族全員で住んでいるはずだ、と。けれど千寿郎くんはいつも四人分しか食事を作らなかった。二人の部屋が離れた場所にあるか、子供のことは子供自身でとあえて離れた生活をしているのかと楽観的に捉えていた自分を戒めた。
ただそのことを聞いて、煉獄さんが杏寿郎さんよりも気高さが溢れるように見えた理由に納得がいった気がした。彼はきっと、瑠火さんが自らの前からいなくなって、槇寿郎さんがお酒に溺れるようになってしまって、自分がこの家を支えなければいけないと律してきたのだろう。
「では、僕は父上に食事を運んできます。さんはいつもの部屋へお願いします」
「うん。手伝わせてくれてありがとう」
頷いた私に千寿郎くんは香ばしい匂いが香る食事の持つ手を止めた。驚いたように瞬きを繰り返した後、眉を下げて小さく笑いながらこちらこそ、と食事を持って厨房を出て行った。
お礼を言われる、と思っていなかったのだろうか。本当に謙虚で素直で、少しだけ自分に自信がなく控えめな性格は、この時代でも変わらない。
台に置いてあるお盆を持ち、私もいつも煉獄さんがいる時は三人で食べている部屋へと向かった。微かに軋む音を立てながら廊下を歩く。随分と昔からある家屋のようだけど、掃除は隅から隅まで行き届いていた。
いつもの部屋の襖を開ける前に、塞がっている手を空けるためお盆を床板へ置く。
据わりの悪い襖を両手でぎこちなく開けると、いつもは閉じていた戸が開いて畳が日差しを浴びていた。
「煉獄さん」
「か。おはよう」
随分と冷えてきていたから、戸はいつも閉まっていた。煉獄さんの艶やかな髪を靡かせている風はやはり肌寒い。
私に振り向いた煉獄さんは今日も晴れやかな朝に相応しい清々しい表情を見せている。
……ただ、千寿郎くんから両親のことを聞いてから、この時代でも彼は心の何処かに必ず潜んでいる弱い自分を押さえつけて、悟られないように振舞っているのではないかと案じていた。
「おはようございます。戸、開けているの珍しいですね」
「ああ、文を出していた」
元いた時代ではあまり聞かない言い回しであるけど、手紙のことだ。今しがた手紙を配達する人がそこに来ていたのだろうか。
この時代の郵便についてまでは詳しくはないからよくわからない。微かな疑問を頭に浮かべながら食事の配膳を始めた。
その間に煉獄さんは戸を閉めて部屋から風を遮る。
「」
「、はい」
煉獄さんは、私のことを名前で呼ぶ。杏寿郎さんも最初から私のことを名前で呼んでいたから、元々そういう人なのかと思っていたけれど、それはどうやら違うらしかった。千寿郎くんが話していた。兄上は仲間内でも苗字で呼んでいます、と。
杏寿郎さんが最初から私のことを名前で呼び出した理由はわからないけれど、おそらく煉獄さんは私が最初に『杏寿郎さん』と呼んでしまった為の条件反射のようなものだと思っている。あと多分、本当にただの憶測でしかないけれど、不安で押し潰されそうな私への親しみを込めて、も理由の一つだと感じていた。私の知る煉獄杏寿郎という人間は、そういう人だ。
食事を並べている私へと影が降り、顔を上げると弱さを一寸足りとも見せない瞳と交わった。
「うむ!もう腫れていないな」
「……?」
「毎朝目が腫れていた。何もできなくてすまかった」
先ほど見たばかり、千寿郎くんのように眉を下げて笑う煉獄さんがそこにはいた。
今までずっと、朝起きて私の目が腫れていることに何かできないかと、けれど元の時代に帰らせる方法なんてわかる筈もなく、気に病んでいたのだろうか。そんな様子、全く見せていなかったのに。
やっぱり彼は、変わらない。
「煉獄さんのせいではありません」
「俺も力になれたらいいのだが、生憎初めて聞く話でな」
「それはそうだと思います……」
「帰り方はわからないが、何かあればなんでも話してくれ。この屋敷には男しかいないからな。わかってやれないところもあると思う」
温かさを感じているのは、彼が部屋の戸を閉めて冷たい風を遮ったからではない。陽光を目一杯吸い込んだ太陽の匂いがする畳のせいでもない。
この時代に来て、最初は混乱していたけど日が経つにつれつくづく思っていた。彼がいてよかったと。
私のことは知らないけれど、私からしてみれば見知った人がいることは唯一の心の頼りとなっていた。目を細めて頬を和らげる煉獄さんに胸の奥からじわじわと波立って、瞳からそれが零れ落ちてしまうのを抑えるように口を噤んで歯を食いしばった。
「ありがとうございます」
「ああ!さあ食事だ!腹が減った!」
豪快に千寿郎くんを呼ぶ煉獄さんの声と同時くらいに千寿郎くんも部屋へと入ってくる。三人になったことにほんの少しだけ胸を撫で下ろした。
煉獄さんといると、心安らぐし包み込んでくれるような優しさに子供のように安心してしまうのだけど、同時に胸の奥が切なくなる。違う人だとはわかっていても、この人は杏寿郎さんではない。それなのに、私はこの人と接していると重ねてしまう。ただ重ねるだけでもなく、気持ちまでもが持っていかれてしまいそうになる。
「今日はさんがお米を炊いてくれました」
「そうか!それは美味いだろうな!」
上がってしまった熱を鎮めるように息を整えてから、二人と手を合わせて朝食を食べ始める。美味い、美味い、と煉獄さんはいつも美味しそうに食事をしている。食事の時まで声は大きいけど、声量と勢いとは裏腹に食べ方はいつだって綺麗で品がある。
「美味いぞ!」
「ありがとうございます」
私を励ますために大袈裟に表現しているわけではないことは理解している。
僅かに少年ぽさを感じる顔つきに胸が春の日差しのような温かい光を浴びている気持ちになった。
炊き方は、全くわからなかった。いつもはボタン一つで炊けるものも手間暇がかかって、一から千寿郎くんに教えてもらっていた。
自分自身の頭も気持ちも落ち着いてきたことも相まって、その日漸く、煉獄さんの言う通りやっと美味しいご飯に私もありつけた気がした。
「……あの、さん」
煉獄さんはとっくに食事を食べ終わり、私と千寿郎くんが食べ終わるのを話をしながら待っていた。こういう時間を大切にしているのだと見て取れる。
その中で徐に口を開いた千寿郎くんに視線を向ければ、不安げな表情を浮かべ私を見据えていた。その様子に、今の今まで長閑な朝を送っていたのが一変、不穏な空気が流れ始める。
「聞きたいことがありまして……」
「……うん、何?」
視界の端に映る煉獄さんは、重々しい面持ちを浮かべて千寿郎くんを見ていた。彼が何を言いたいのか、わかっているように見えた。
聞き辛いことなのだろうかと、重くなった空気に唾をゴクリと飲み込む。
「未来って、どうなっているのですか?」
「どう……?」
「鬼は、まだいるのでしょうか」
この時代、この屋敷へ来てから何度か聞いた単語。“鬼”というのは、実在する魔物ではない。節分の時に大人が鬼に扮装し、悪い子供を怖がらせるもの以外の何者でもないのだ。
だから、どうしてそんなにも神妙な面持ちをしているのかが、私にはわからなかった。
「いないよ、鬼なんて」
「……いないのですか!?」
微笑しながら首を横に振った私に、千寿郎くんはパアッと花咲くように頬をほんのりと染めて表情を明るめた。
“鬼”が何かに例えられているものであれば真偽は確かではないけれど、私は見たことがない。し、いるわけがないと思っている。勿論それは、どの時代にも共通する話だ。
「兄上!未来では鬼がいないそうです!」
「ああ、願った話だな」
満面の笑みを浮かべる千寿郎くんの頭を煉獄さんの大きな手が撫でた。微笑ましい光景に私までもが頬が緩んでしまいそうになる。
この時代のこの人達は私のことは知らないけれど、それでも各々が幸せに生きているのだ。私が簡単に踏み入っていい場所ではない。
早く、どうにか、帰る方法の手がかりを探さないといけない。
「、その鬼の話だがな」
「はい」
「詳しく話していなかったから、話そう」
まず、鬼は人を喰らう。
前にも聞いたその言葉の後に、煉獄さんから発せられる空想上のような言葉の数々を、いまいち私は飲み込むことができなかった。