長閑な心騒ぎ
歴史に関することでふと疑問に思うことがあれば、気軽に尋ねることができていた彼もいない。ただ、正直に言ってしまえば知識を得たくて聞いているのではなく、自身の好きなことに目を輝かせ意気揚々と愉しげに話すその姿が私も好きで、わざとらしく問いかけていたことがほとんどだった。今回ばかりはその例にそぐわず、『大正時代に鬼の存在なんてあったのですか』と真剣に問いたかったのだけれど、聞ける相手はここにはいなかった。
「さん、早いですね」
「千寿郎くん。おはよう」
「おはようございます」
生活には徐々に慣れてきた。毎日毎日、未だに夜、目を瞑る時は朝起きたら元いた時代に戻れないだろうかと願うことをやめたことはない。けれど戸の隙間から零れる朝日の眩しさに目を覚ますと、所々に染みのできた天井が私を迎える。
今日も“いつも通り”だったと肩を落としてから、私の一日は始まっていた。そんな毎日に脳も身体も慣れてしまい、こうして毎朝千寿郎くんよりも前に厨房に立ち朝食の準備を進める。私にできることがこれくらいしかないことと、もし、この時代で誰かの役に立つことができたのであれば元いた時代に帰れるのかもしれないと、浅はかだがそう考えていた。理由もなく、ただ平凡に暮らしていた一人の人間が時代を遡ることなんてあり得るのだろうか、そして見知った人がいる世界に降り立つことなんて、例えばこの世に神様というものが存在するのであれば、理由があるのではないかと考えていた。
「いつも手伝っていただいてありがとうございます」
「ううん、当然だよ」
どこまで控えめ謙虚な子なのだろうかと、それは元いた時代でもこの時代での千寿郎くんも変わらない。
首を横に振る私に千寿郎くんは眉を下げて小さく笑う。未来には鬼なんてものは存在しない。そう伝えてからの千寿郎くんはどことなく顔色が明るくなった気がしていた。
「そうださん」
「うん?」
「俺、考えたんですけど」
ここで過ごしている内に、千寿郎くんとは元いた時代の頃よりも親睦を深められている気がした。一緒に暮らしている状況であるから当然といえば当然なのだとは思うけど。
けれど、煉獄さんは家にいることが少なく、一緒に暮らしてはいるけどそれほど話す機会も少ない。煉獄さんの姿を見ると、どうしても脳裏にこびりつく帰りたいという思いが強くなり、胸が苦しくなってしまうから私が平常心でいられずに変に取り繕ってしまうせいもあるけれど。ただ、煉獄さんはそんな私のことはまるで気にも止めずに、私が使うだろうというものをさり気なく調達してくれていた。瑠火さんが使っていたと思われる身嗜みを整える道具一式、店の人へ尋ねながら同じものを取り揃えてくれていた。何かあれば他にも何でも言ってくれ、と見ず知らずの他人にこうまで優しくしてしまう彼のことが時々怖くなる。
いつだって杏寿郎さんは自分のことはさて置き、私のことばかりだった。煉獄さんも同じだ。ただ、煉獄さんの場合は私の恋人でもなんでもないのにその人の良さに尚更心配になってしまう。
杏寿郎さんと煉獄さんを頭の中で重ねていると、野菜をまな板の上でトントンと音を立てながら切っていた千寿郎くんがおもむろに口を開いた。
「図書館に行ってみるのはどうですか?」
「図書館?」
聞き返す私に千寿郎くんははい、と頷く。
今まで考えてもみなかった提案だった。私に起きているこの現象は奇怪なことで、現実的にはあり得ないことで。だから、そんなファンタジックな幻想でしかない事柄が本を読んで解決するとは思えなかった。まず、本すらなさそうだとも思うけど。
瞬きを繰り返していると、千寿郎くんは杏寿郎さんにそっくりな笑みを浮かべる。
「知りたいことがわかるかもしれません」
「……わかるかな」
「さんが経験していることがわかるかは、今はわかりませんが、この時代のことを知るということがもしかしたら何かの手掛かりになるかもしれませんよ」
「そう、かな」
「はい。俺もよく行きますよ」
大正時代にはすでに図書館と呼ばれる建物があったことに自分の知識の無さを実感しつつ、千寿郎くんの話すことに一理あるなと、いくつも年の離れた彼を見て、見た目よりも随分と精神は大人のようだと悟った。煉獄さんもそうだけど、この時代の二人はどことなく落ち着きがあるというか、肝が座っている雰囲気を纏っている。鬼がどうたらと、そう話していたことに関係しているのだろうか。
「どこにあるの?」
「ここからは少し歩くのですが、町を出て南西に……」
まだ、私はこの屋敷から一歩たりとも外へ出てことがなかった。ここがどこだかもまるでわからず、帰る場所もなければ外へ出る必要もなかったからだ。
けれど、ここに住まわせてもらっている以上何もしないというのは迷惑極まりない。千寿郎くんの言う通りに私もその図書館へ近い内に行こうと必死に道筋を頭に入れていたが、まるで土地勘のない私のことを察し、後で紙に書きますね、と千寿郎くんは案内をやめてくれた。
「さん、最初は何もわからないって言ってましたけど慣れるの早いですね」
「そうかな」
「はい」
お味噌汁の濃い匂いが厨房に充満してきた頃、お米も炊き上がりお椀へとよそいながら二人で準備を進めていた。
「誰かと料理をすることって今までなかなかなかったので、嬉しいです」
「……千寿郎くん」
「兄上は家を出ていることがほとんどですし、いたとしても料理が……」
目を細めて儚げに笑う千寿郎くんに私は思わず抱き締めたくなってしまう衝動に駆られたのだけれど、最後まではっきりと口にすることが憚られたのだろうか、けれど何を言いたいのかがわかってしまい思わず私も小さく息を吐いてしまった。
「杏寿郎さんも、確かに『料理ができる』とは言い難かったかも」
できなくはない。けれどどこか惜しく、なんでも卒なくこなせる人だと思っていたからそのギャップに驚いたのは懐かしい話だ。今日は俺が好きなものを作ろう、と提案された時に彼を傷つけないよう言い回しに気をつけながら、一緒に作りましょうとキッチンに並んだ日のことを思い出す。
本来なら、お米がボタン一つで炊けるキッチンで今日も朝を迎えていたはず。
「そうなんですか?」
「うん。全く一緒だね、煉獄さんと杏寿郎さ、」
「俺の話か」
「!」
こうして考え過ぎてしまうと胸が苦しくなってしまい、せめて表面上だけでもと明るく振舞おうとした矢先、話の当人である煉獄さんの声が聞こえ肩を揺らした。
厨房の前で腕を組んでこちらを見ていた煉獄さんは肩から掛けられた羽織を靡かせながら歩み寄る。
「兄上!帰って来られてたのですね」
「ああ、巡回も一通り終わったところだ。何の話をしていたんだ?」
「あ、えっとそれは……」
「隠し事か」
愉しげな表情で弟を揶揄う姿に心から千寿郎くんのことを大事に思っているのだろうと胸が打たれる。
仲睦まじい兄弟の様子を見ていれば、込み上げてくる笑みはそのまま表に溢れてしまった。そんな私に二人は気付いて、私は私で二人の反応に我に返る。妙な沈黙が厨房に流れた後、いつもそれを破るのは決まって彼だった。
「よし!今日は俺も手伝おう!後は何をしたらいいんだ?」
「えっ、だ、ダメです」
「なぜだ!」
千寿郎くんの元からずんずんと私の目の前まで声を上げた。けれど、今し方千寿郎くんと話していた通りこの人の料理の腕というのは不確かで複雑だ。そもそも帰ってきたばかりなのだから休んでほしい。疲れを一切見せていないけれど、そう見せているだけなのだろう。そのことは、私が元いた時代の彼と今目の前にいる彼。同じであるのであればただの私の考えすぎではない。
「だって煉獄さんは、その」
「俺は料理ができないと思っているのか」
「……はい」
「む、心外だな」
疲れているのですから休んでください、と、止めたところで君が気にすることではないと譲らないであろう。素直に頷けば煉獄さんはほんの少し眉を潜めてつまらなそうにする。それが普通の少年のように見えて、懲りもせずまた私は微かに吹き出してしまった。
「ならば君が教えてくれ」
「……私が?」
「ああ!慣れるのも早いと聞いた。是非手本を見せてほしい」
喜色を浮かべる面持ちに、前に、杏寿郎さんにも同じ台詞を言われたことを思い出す。
いつもいつも、教えてもらってばかりだった私が唯一杏寿郎さんの一段上に立てることだった。ああ、同じだなあ、なんて、もうここへ来て何度思っただろうか。重ねてしまうほど、煉獄さんを知ってしまうほど堪らなく心が痛くなる。けれどそんなことは、この人にはなんの関係もないのだ。
他人である私にこうも良くしてくれる人の誘いを断ることなんてできないし、何しろ私がこの時代に来た理由は、一番関わりの深いこの人にあるのかもしれないと漠然と思い浮かんでいた。
「私でよければ、」
「こんにちはー!」
胸に手をあて、拳を握り締めた私の声に被せて高らかな挨拶が屋敷の入り口の方から響いた。