花灯り

喪失の朝

一歩、目の前の昂然たる振る舞いの彼へと歩み寄ろうとした。それを遮るように響いた声の主は、慣れ親しんでいるのか迷いなく屋敷の扉をガラリと開け、廊下を歩いて近付いてくる音が聞こえる。
煉獄さんは言い淀んだ私から、まるで気にも止めず、何もなかったかの如く綽綽と厨房の入り口へと顔を向けた。

「んー!いい匂い!丁度朝ご飯かしら!」
「甘露寺!久しぶりだな」
「煉獄さん!手紙ありがとうございます!返事書くよりも丁度近くにいたので来ちゃいました。千寿郎くんも久しぶりね!」
「お久しぶりです」

軽快な足取りで厨房に顔をひょっこりと覗かせたのは、淡い桜色の髪色が印象的な人だった。朗らかな笑顔はこちらまで気持ちが和らいでしまいそうなほど晴れた日の朝に相応しく見えた。白い羽織の下に着ている服の胸元が大きく開いていてそれがどうしても気になってしまうのだけれど、煉獄さんも千寿郎くんもいつも通りな素振りだ。甘露寺さん、と言っただろうか。甘露寺さんは煉獄さんの手を握り嬉しいといった感情のままぶんぶんと揺らしている。
やけに距離が近いその様子に、もしかしたらこの人は煉獄さんの……、という思案が脳裏に過ぎる。
何故だか私は、煉獄さんにそういう人がいないと思っていたのだと目の前で繰り広げられるやり取りに初めて実感する。どこか、この時代の煉獄さんも私のことが、なんて頭の片隅にあったからだろうか。だから、胸の底がじりじりと焼かれるような感覚がしているのだろうか。
煉獄さんは、私のことなんて知らないのだから、そういう人がいてもおかしくない。普通に考えればわかることなのに、勝手に私が複雑な思いを抱いてしまうのもお門違いでしかない。

「……貴方が、ちゃん?」
「、はい、」

二人の様子を無意識にじ、と見据えていれば、甘露寺さんは煉獄さんの手を放し、くるりと私へその甘美な顔立ちを向けた。名前を知っている、ということは、煉獄さんが私のことを話していたのだということはすぐに理解できた。
甘露寺さんはたじろぐ私へと歩み寄り、がし、と煉獄さんの手を掴んでいたものとは対照的にそっと私の手をとった。

「私、甘露寺蜜璃です!煉獄さんに頼まれて来たの。今日からよろしくね!」

薄紅に染まる頬に浮かべる笑顔は、何事も無ければきっと、女の私でも心臓がどくりと動いてしまうものだっただろう。けれど、その笑顔をよりも、彼女が握ってくれている手の感触に違和感があった。
同じ女性同士であるのに、この人の手の平は一部がザラザラとしている。おそらく、指の付け根に豆がある。一体、何をしていたらこんな可憐な女の子の手に痛々しい豆ができるのかと想像できる域を超えていた。

ちゃん?」
「え、あ、はい!よろしく……よろしく?」
「あら?聞いてないのかしら?」

反応のない私に甘露寺さんが首を傾げたので我に返り慌てて返事をする。が、甘露寺さんの話していることが理解できずに、私も同じように甘露寺さんへ首を傾げてしまった。今日から、私はこの人に何をよろしくされるのだろうか。脳内に疑問符を浮かべながら、甘露寺さんが煉獄さんへと視線を移したので私もつられるようにそちらへ目を向ける。

「すまない。に言うのは甘露寺から返事が来て確定してからにしようと思っていた」
「あ、私が早く来ちゃったからですね!ごめんなさい」
「いや、いい。いつ話してもにとって悪い話ではないだろう」
「あの、何の話でしょうか……?」

甘露寺さんは私の手を放して口元を手で覆って煉獄さんへ謝った。私が知らない内に水面下で動いていたらしい話に疑問が募るばかりで、ついていけずにおずおずと煉獄さんと甘露寺さんの話へと割り込んだ。
そんなつもりはなかったのだけれど、あからさまに私が不安げな表情をしてしまっていたのだろうか、煉獄さんはその不安を払拭させるような笑顔で溌剌と口を開いた。

、これから君は甘露寺の元で暮らすといい」

一瞬、私に流れる時間が止まったような感覚がした。屋敷の外で鳴く小鳥の囀りがやけに穏やかに聞こえる。
煉獄さんの言葉の意味は、すぐに理解できなかった。
甘露寺さんも私の前で、うんうんと頷いている。千寿郎くんも煉獄さんより少し柔らかい表情を浮かべて私を見ている。

「その方が君も安心するだろう」

なんで、と、でかかった言葉はすんでのところで喉奥に留めた。そんなことを思う私の方こそ“なんで”だ。煉獄さんは、きっと女である私のことを思って私を自分の信頼できる人へと任せようとしてくれたのだろう。
けれど、それが理解できたとしても、心の底から頷くことはできずにいた。そんなわけは絶対にないのに、今まで避けてしまっていた私のことを、拒絶するように聞こえてしまった。

「……今まで、ありがとうございました」

今さっき、彼が言っていた『君が教えてくれ』というのは単なるその場の口前でしかなかった。別に、彼は私のことを知ろうとしてくれたわけではない。この世界の彼にとって私は、なんでもないただの迷い人であるのだ。
振り絞った声が震えていなくてよかった。
私は、どうしてここがいいと思ってしまったのだろう。そんなの、自分を苦しめるだけなのに。

「ああ!気にするな。朝食を食べてからゆっくり準備をするといい」
「はい」
「蜜璃さんもご一緒にどうですか?」
「ええ!いいの!?」
「勿論です」

それが当たり前であるかのように物事が進んでいく。
朝食を運ぶ煉獄さんを無心のまま見ていると、視線に気付かれ橙の瞳に私が映る。ああ、本当に不安げな顔を浮かべてしまっていたのだと他人事のように思った。

「大丈夫だ!甘露寺は自慢の後輩だからな」

どうしてここがいいか、なんて。そんなの一つしかない。この人がここにいるからだ。何もわからず異様な事を述べる私にここまで優しくしてくれる彼がそばにいてくれるからだ。苦しくなるけど、こうして私を励ましてくれる彼に少なからず安心もしていた。
けれど、違う。彼は私の知っている人ではない。同じようで、全くの別人だ。


──帰りたい


今までもずっと思っていたことなのに、この人が少しでも私の頭の片隅にでも関与するとその思いが頭を独占する。甘露寺さんが恋人であるのかどうか気になってしまっていたことなんてすっかり頭の中から抜け落ちて、私の肩に手を置く煉獄さんへぼんやりとしたまま頷くことしかできなかった。
後ろ髪を引かれる思いのまま、朝食を食べた後に私はこの屋敷で私用にと用意してもらった諸々を纏め、屋敷の前で頭を下げ甘露寺さんの後をついていった。

「それは?」
「図書館への地図です。千寿郎くんが書いてくれました」

私が煉獄家を去る間際、朝話していた図書館への行き方を記したものを千寿郎くんが手渡してくれた。
丁寧な字で書かれたそれに、未来ではお母さんが書道教室をしているはずなのにと胸が締め付けられる。

「そっか、知りたいことがわかるといいわね!」
「はい、ありがとうございます」

気さくで優しい人だ。彼がああやって、優しくて他人の不幸までもを包み込んでくれるような温かい人だから、周りにはそういう人が自ずと集まるし、伝染していくのだろう。早く、私も杏寿郎さんの元に帰りたい。あの人の温かさに浸りたい。こんなことがあって、と不思議な体験をしたことを笑い話にしてしまいたい。
どれくらい歩いて来ただろうか、時刻は太陽の位置からしてお昼時だ。ここよ、と到着した場所の屋敷は広々としていて頭上には蜂が飛んでいる。

「何か困ったことがあったらなんでも言ってね!女同士だから、本当に遠慮しないでね!」

空いていると言っていた部屋を一つ用意してもらって、既に艶やかな花柄が描かれている衣服も何着か部屋に置いてあった。
暮らしていく分には、こちらの方が都合がいいのは誰が見ても確かだった。甘露寺さんも良くしてくれる。
けれど、これ以上に心地の良いことはないはずのことなのに、心に穴が空いたような虚無感に私は何も考えられなくなっていた。