花灯り

こころの隅に錆を飼う

何もかもが至れり尽せりな生活だった。何をしなくたってこの屋敷の女中の方が三食、それも彩り豊かに品数を揃えた食事を用意してくれる。
服も身嗜みを整える道具も、私が煉獄家から持ち寄ったもの以外にも取り揃えられていて、生活する分には申し分がないどころか十分すぎる暮らしだった。

「昨日結構歩いたから、疲れてるでしょう?私は巡回で留守にするけど、ゆっくり休んでね」

煉獄さんと同じように、私を安心させるような笑顔を浮かばせる甘露寺さんは私に言い残し、腰に刀を携え日が暮れ始める夕刻頃に屋敷を後にした。
仄かに蜂蜜の甘い香りが漂う広々としたこの屋敷に、長居していたら私はこのまま一生帰れないのではないかと一抹の不安が頭を過った。
私に良くしてくれる人ばかりなのに、そこに杏寿郎さんがいないということ、同じようで別人がいる現実に、私はもう耐えられそうになかった。
帰りたい。今すぐにでもこの世界から抜け出したい。どうしたら、私は元いた時代に戻れるのだろうと漸くこの屋敷に来てから頭を動かした時、すぐに思い出した。
千寿郎くんから昨日貰った図書館への地図。土地勘がない私へと随分詳しく丁寧に書いてくれていて、人に聞かずとも辿り着けそうだった。森か林か、道が整備されていないけど早い方か、そっちを迂回した道筋も記してくれている。
いつまでもここに居座ることはできない。私の住む場所はここではないのだから、帰ることの手掛かりを手探りでも探していかなければならない。杏寿郎さんならきっと、自分の足で、力で、今の私のように下なんて向かずに揺らぐことのない瞳で前を向く。

「…………」

明日の朝、すぐにこの居心地の良過ぎる屋敷を出ようと心に留めていた。けれど私の頭の中はまるで落ち着かずに早く図書館へと行くことばかりに支配されていた。
瞳を閉じていても頭は冴えている。
日が昇るのはあと数時間はあるのだろうか。それならばむしろ、少し遠い場所へ赴くのであればもう出た方がいいのではないかと、その時の私は煉獄さんや甘露寺さんが普段何をして、何と闘っているか、なんて頭の片隅にもなかったのだ。思い立ったままに柔らかい布団から抜け出し荷物を軽く纏める。誰一人、この時間に起きている人はいなかった。誰にも気付かれることもなく私は地図を片手に屋敷から抜け出し、月明かりが照らす夜道を歩いた。この時代に来て、初めてこの時間に一人でいる外の空気は冷たかった。
千寿郎くんが書いてくれた地図の分かれ道に辿り着き歩みを止める。一方は整備されていて、奥には町の明かりも見える。けれど、それは遠回りなのだ。だとしたら、一刻も早く帰りたい私が選ぶのは月の光さえも届かない暗い道だった。

「……全然怖くないな…………」

ため息混じりに笑いながら呟いた独り言。
怖くて杏寿郎さんの腕にしがみつきながら歩いた浅草のお化け屋敷や、顔を手で覆い隠しながらも杏寿郎さんの隣で見ていた怖い番組よりも何かが出そうな不気味な通りであるのに、まるで恐怖心はなかった。何かに怯えることよりも、一心不乱にある場所を目指していたからだ。
だから、この世のものとは思えない生き物に出くわしても、真っ先に逃げようとはしなかった。
道なのかそうでないのかさえ定かではない雑草が伸びきっている地を歩いていると、異臭が漂ってきた。それから、ぐしゃぐしゃと何かを噛み砕いているような音。
鼻を手で覆いながら音のする方へ視線を向けた時と、その生き物が言葉を発するのは同時だった。

「お、二匹目」

噛み砕いているのは、人の骨だった。
血に塗れた人間を、見たことのない禍々しい生き物がまるでフライドチキンでも食べているかのように軽々しく喰いちぎりごくりと喉を鳴らしている。

「ハハハ、足元が竦んで動けねェか」

人を食べる生き物、それも言葉を話して理性もある。そんなもの、聞いたことがない。自分の知り得ない現象なんて、この世に五万とあるだろう。けれど、目の当たりにしている光景は非現実的なもので、理解が追いつかなかった。
けれどそれが、この世界はやはり夢で何かの拍子に戻ることができるのではないかと、やけに冷静にそんな考えが頭を巡っていた。

「まあいいや、お前ちょっとそこにいろよ」

例えばそう、私も、あれほどの血を流すくらいの衝撃があればこの世界から抜け出せるのではないかと、瞬きも忘れるほどにその生き物のことを見据えていた。
その生き物は足元の雑草をむしり取り、しなっていた草を鋭利な刃物のようなものへ変形させた。これは、夢だ。夢でしかない。こんな世界、現実にあるわけがない。
その刃物のように変化した草を動かない私へと腕を振り下ろすように真っ直ぐに飛ばした。これで、元いた世界に帰ることができるのだと瞼を閉じた。

「っい、ぁ……っ!!」
「大丈夫大丈夫、まだ殺さねェから」

けれど、目を瞑った私に襲ったのは身体の表面が焼かれるような痛みだけだった。想像を絶する苦痛にその場に立っていられず、地に手をついた。着ていた服が裂けている。切られた。身体を。でも、帰れない。
切られた箇所から血が流れ腕を伝い手の甲に流れ、緑色の草を赤く染めていく。

「……は、はっ、」
「ちょっとそこで息しててくれや。生きてる人間食べるのが最高に新鮮で美味いんだよ」

痛い。足もふくらはぎと太腿辺りが切られている。痛くて逃げるどころではない。歩くことすらままならない。

「なん、で」
「あ?」
「かえ、れ、ない……、の」

帰りたいのに。ただ、私は元にいた場所へ帰りたいと、戻りたいと願うだけなのにそれさえ許されないことに涙が溢れた。もしかしたら、私はここで、この化け物に食べられて死んでしまうのか。そうしたら、もう私は終わりなのだろうか。それとも、この世界で私が死ぬことで元の世界に戻れるのだろうか。何をしたら元に戻れるかわからず、こうして命まで掛けないと戻れない世界を、神様も、心底恨んだ。

「そりゃお前、俺の前に現れちまったから仕方ねェだろ」

息が苦しくて呼吸が上手くできなかった。頭も朦朧としてきて、草を踏み潰して私に近付く化け物の音だけは耳に鳴り目の前にいることがわかった。
滲んだ視界のまま、顔を上げると暗がりに浮かぶ薄気味の悪い表情に背筋が凍る。初めて、怖いと思った。
知らない世界に飛ばされて、知らない生き物に殺されて、私は消える。嫌だ、死にたくない。そんな叫びも声にはできず、満身創痍な私へ化け物の影が降りた。

「炎の呼吸……」

さようなら、もう、杏寿郎さんに会うことはできないのかもしれない。勝手にいなくなって、一人にしてごめんなさい。
初対面で両手を包み込まれた日から、押しに押され付き合いはじめ、気付けば彼のことが好きになって、人気な彼に子供のように嫉妬をして、それに気付かれ甘やかしてくれた日のことなど、走馬灯のように歩んできた時のことが巡り巡っていた。

「壱の型、」
「!?」
「不知火!!」

そんな折に、聞こえてきたのは彼の声だった。
ぐしゃぐしゃになった私の顔を掴もうとしていた手はもう目の前にはなく、その身体は目の前で倒れ塵のようにポロポロと崩れ散っていた。

「間に合ってよかった」
「…………」
「ああ、鬼は頸を斬ると消滅する、とまでは話していなかったな。もう大丈夫だ。傷も深くはなさそうだ。胡蝶の元まで送ろう」

私を見下ろす煉獄さんは、鬼と呼ばれる化け物の頸を恐らく斬って、暗がりもものともしない存在自体が灯火のような風格を私に見せていた。
言葉を発することのできない私に、煉獄さんは怯えているのだと捉えたのだろう。刀を鞘にしまい私を横にして抱え上げた。目的地へと向かい私が今まで歩いてきた道を遡っていく。

「……、あ、の」
「無理に喋らなくていい」

鬼のことは、教えてもらっていた。陽光にあたると消滅してしまうから、主に日の当たらない夜、人気の少ない場所で活動をしているとこの人は話していた。だから、私がこんな夜更け前に外に出て、人気のない道を選んで鬼に襲われてしまうことなんて、自業自得であるのに。それなのにこの人は、そんなことは気にも止めない様子で、怒る素振りすら見せない。
にわかに信じ難い話で、私はいまいち信じ切れていなかった。でも、にわかに信じ難い話なんて、彼からしたら私の存在も同じだ。けれど、彼は私の話を信じてくれた。身を案じてくれた。優しく笑いかけてくれた。
なのに私は、何をしていたのだろう。どうして彼の話を受け入れなかったのだろう。

「痛むのか?すまない、もう少し我慢、」
「ごめんなさい」
「…………」
「話を、しん、じないで、……っごめ、なさい」

なんて、軽薄な人間なのだろうと。いくら自分を罵ろうと足りなかった。
瞳から溢れた涙が頬を伝って血に汚れた衣服へ混ざる。無意識に煉獄さんの胸元を掴んで、何度も何度も縋るように謝った。優しくされるほど、自分がいやに惨めで彼が尊い人間なのだと知らしめられる。

「……よくある話だ。気に病むな」

ぼやけた視界の中に映る彼の表情は、眉を下げた哀しい笑顔だった。私が、一番彼にしてほしくないことだった。
彼は、私が鬼の存在を目の当たりにしない限り、全てを信じてもらうことなんて不可能だと、最初から思っていたのだろうか。だったら、それを私に伝えている時、彼はどんな思いだったのだろうか。
命がけで人を守る為に鬼と戦っているのに信じられないなんて、そんな悲しいことに耐えてきているのかと思えば、今私から溢れ出る涙は、なんの涙なのかはわからなかった。