花灯り

たった一つの

彼女に起こっている現象は、到底理解し難いことであった。血鬼術の類だろうかと脳裏に過ったのは言うまでもないが、彼女の話し方、身の震え方を見ていれば信じる他なかった。
名前自身、言葉にはしたものの信じ難い、信じて貰えないだろうと心にしていることはか細い声と表情から伝わった。だからこそ信じようと思った。そして、笑うことの少ない名前が笑顔で帰れるよう力になりたかった。
時折彼女は俺の顔を見つめては目を細め心憂い表情を見せるのだが、恐らくその瞳に映るのは俺であって、俺ではないのだろう。彼女の知る、未来の俺だ。名前も姿も同じだと伝えられれば、彼女が重ねてしまうのも無理はないと思った。
だが俺としては、実際に見たわけではないから些か実感が湧かずに別人であるとは考えていた。

「あら杏寿郎くん、来てたのね」
「こんにちは」
「どうぞ見ていってくださいな」

潰れた手の豆に構わず鍛錬を繰り返し鬼の頸を刎ね、鴉が鳴かずとも担当地区の巡回。ごく稀に訪れる非番に何をすればいいのかと戸惑い結局のところ稽古場で竹刀を振るう、そんな日々を過ごしていた。嫌になったことはない。勿論、人を喰らう鬼の存在が無ければ俺は恐らく、もっと別のことをしていたのだろうと思うのだが、鬼殺隊に身を置く自分の命に惑うことはなかった。
強く生まれたものは弱いものを守る。母上に教えられたその言葉を落とし込み、やるべきことを全うするだけだった。
だが、そんな非日常から逸脱するような自分の言動にも驚きを隠せずにいた。
任務帰りに寄った町は昔からよく訪れる場所で顔馴染みも大勢いた。全員が全員、俺の家系が鬼殺をしていることを知っているわけではないが、今俺を店の中へと招き入れる小間物屋の御婦人は母上とも親しげであった為、俺が小さい頃から世話になっている人だった。
小さい頃は、母上の後ろをついて行っていただけで、女性が使用する小物を主に置いているこの店は自分には縁のない場所だと思っていたが、こんな形で世話になるとは思ってもみなかった。

「最初は杏寿郎くん、お嫁さんをもらったのかと思ったわ」
「まさか。いませんよ。いつ死んでしまうかもわからない俺を選ぶ女性なんて」
「ふふ、そうねえ。瑠火さんのような強い女性なんでしょうね」

ないと困るだろうからと名前が屋敷に迷い込んでから、俺が最初にこの店へ来た時にも同じことを言われた。久しぶりに顔を出して女性が普段使用するものを一式欲しいと伝えたのだからそれもそのはずだ。
嫁を貰ったわけではない。では、誰に、と問われた時、呼称に頭を悩ませた。
名前は俺にとって、何にあたるのだろうと上手く言葉が見つからなかった。その時は、迷い人だ、と困惑させてしまうようなことを正直に話したが、今でも何が正しいのか正解は見つからない。
ただ、彼女が笑って帰れるように力になりたいと思う傍で、何か引っ掛かりを覚えているのは事実だった。
含みを持たせ小さく笑いながら母上を思い出すように話すその人へ俺も笑い返し、豊富に取り揃えられた鮮やかな小物へと視線を流す。もう何度も来ているが、やはり何がいいかは全くわからず、好みのものを選ぶという気の利いたことは俺には上手くできないのだろうと感じていた。

「好きな人から貰うものって、結構なんでも嬉しいものよ」
名前は俺のことが好きなわけではありませんよ」
「あら、そう?」
「ええ」

名前は、俺に彼女の思い人を重ねているだけだ。俺は名前の恋人でもなんでもなく、ただの……ただの、ここまで来て、いつも言葉にできない。
友人という間柄は少し違う気がした。しかし知人という括りにしてしまうほど浅い関係ではないと思っている。鬼殺隊の仲間でもなければ家族でもない。

「杏寿郎くんは?」
「……俺ですか?」

今日は何を名前へ贈ろうかと悩んでいるわけではなく、名前との関係に頭を捻らせていた。そんな俺に勘定をする台の上で頬杖を付きながら頬を綻ばせる。何のことだろうかと押し黙っている俺に愉しげに口を開いた。

「杏寿郎くんは、好きなの?名前ちゃんのこと」

自分自身へも問うことのなかったその言葉を顕にされ、一度深く熟考する。
名前のことは、勿論好きだ。ただ、この人の言うそれであるかはわからない。しかし一概に否定もできない自分もいた。その答えは、名前が俺の足を手当てする前であるならば確かに違うと声に出せたのだろう。

「いつも優しい目をして選んでいるから」
「…………」
「槇寿郎さんみたいよ」

名前に対する俺の思いに答えはすぐには出ないが、父上のようだと言われ心に明かりが立ったような気がした。

「父上は、母上が好きそうなものを選べていましたか?」
「いいえ全く。もう全然よ、全然」

名前は、俺のことが知りたいと話していた。だから彼女の望むよう家族のことや同僚のことを話していたりはしたが、恐らく彼女が本当に知りたいことは俺の弱さ、なのだと思う。
俺は今まで、決して強がっているつもりはなかった。強いものなのだから、それであることが当然でいただけだった。けれど言葉にされ、もしかするとそうなのかもしれないと、自分でさえ気付いていなかったことを真っ向から伝えられた気がした。
だから俺も、そんな彼女のことが知りたいと思うようになっていた。もっと、隣で笑ってくれたらいいと。

「俺も、全くです」
「親子ねえ」
「いつも助かっています」
「ふふ、いいのよ。そうそう今日ね、下ろし立ての紅があるのよ」

髪飾りや香水、今日のように化粧品を俺に見せて、ある程度選択肢が絞られた上で何がいいかを俺が選んでいた。
名前は贈ったものを律儀に身に付けているから、それにまたこちらまで気持ちが良くなりこうして店に足を運んでしまっていた。
紅が入った木箱を台の上に置き、その前に歩み寄る。どれがいい?と俺に尋ねるような表情を作り出すので、一際目を引く色を選んだ。

「杏寿郎くんが好きな色ね」
「ええ、名前に似合うといいのですが」
「似合うわよ、きっと」

仄かな薄紅色、ではなく鮮やかな赤を選んだ。大人の色ね、と言われたが俺にはよくわからない。けれどおそらく、似合うと思った。それは俺が好きな色だから勝手にそう思うだけなのだろうかとふと思うのだが、名前のような小さいけれど一つ揺るぎない強さを持つ女性には、ぴったりであると思った。

「あ!煉獄さん!いらしてたんですね!」

勘定を済ませ店を出るとなった時、店の奥から声を弾ませながらやってきた子はここで働く町娘だった。何かをした覚えはまるでないのだが、なぜか良く思われているらしく会えばいつも俺へ嬉々とした面持ちを向けていた。

「煉獄さん任務終わりですよね?この後お茶しませんか?」
「すまない、あまり時間はないんだ」
「ええ!またですか?いつもそれ!」

あからさまに口を尖らせ不貞腐れる彼女へ苦笑した。会えば毎度誘われるのだが、時間を理由にして断っていた。その時間の大元は、名前のことなのではあるが。時間がないのではなく、名前を優先しているだけだった。

「こら。杏寿郎くん困らせないの」
「はーい」
「また来ます」
「いつでもどうぞ!」

溌剌と俺を見送るその子へ片手を上げて、包みを手にし店を出た。

「答えなんて、出てるのにねえ」
「答え?」
「なんでもないのよ。ほら、仕事」

凍てついた空気に季節はとうに冬であることを認識させられた。
屋敷へ帰る前に甘露寺の屋敷へと赴き外回りを掃除していた女中に断りをいれる。『お庭に』と教えられたままに屋敷へは入らず庭へと回れば敷布を竿に干している後ろ姿があった。その髪には以前俺が贈った簪が艶めいていた。その様子に素直に胸が熱くなるが、腕を上げた時に見える傷の跡に遣る瀬無さが襲う。彼女が帰った時、俺に似ている人間に心配をさせてしまうだろうか。

名前
「煉獄さん、おかえりなさい」
「買ってきた。使ってくれ」

せめて、彼女が帰るまでは俺が彼女のことを守れたらと思う。働くその後ろ姿へ声をかけるとすぐに気付き、俺がこの屋敷へ訪れることにもう特段驚くことはいつの間にかになくなっているようだった。
今し方買ったばかりの包みを名前の前に歩み寄り差し出す。

「え、またですか?」
「まただ」
「悪いです」
「もう買ってしまったし俺は使えないぞ」

半ば無理やり受け取らせる俺に名前は眉間に皺を寄せながらもありがとうございますとお礼を述べた。言わせてしまったようなものだが、その可愛らしい様子に俺も心が充足していた。

「開けてもいいですか?」
「……」
「煉獄さん?」
「、ああ。そうしてくれ」

包みを開く名前を見ていて気付く。
可愛らしい、と何気なく思ったが、その反応ですらもっとずっと見ていたいという感情が芽生えていた。多分、今芽生えたものではない。今芽生えたものにしてはいやに穏やかだ。

「口紅ですね!わ、真っ赤……似合うかな」
「今してみてくれないか」
「今?」
「ああ、今だ。絶対に似合う」

瞬きを繰り返す名前は幾らか固まった後、言われた通りに小指を使って紅を掬い、一度俺に背を向けた。
我ながら、好きなのかと問われこうして改めて名前を前にしないと自分の気持ちにすら気付きが遅かったことに、心の中で苦笑した。
冷たさを感じていた空気すら忘れてしまうほどに心が温かくなる、辿り着いた答えに迷いはなかった。むしろ、腑に落ちた。

「この色、私に似合うというよりは煉獄さんのような色ですけど……」

白い肌に艶やかに染まった唇が印象的だった。頬をほんのりと染めて、恥ずかしげに頬を緩める名前の瞳に、無意識に笑みを零していた自分が映った。
恋人ではないし家族でもない。友人、鬼殺隊の仲間でもない。
どれにも当て嵌まることのないそれは、その瞳に映るのは俺であって、奥にいるのが俺ではないとしても。

「好きだ」

愛おしい存在。ただそれだけのことだった。