待てど桜は散りゆく
訃報を聞いて、千寿郎くんと同じように震えも涙も止まらなかった。葬儀の間は、ずっと放心状態だった。元々、杏寿郎さんがこのお屋敷にいることは少なかったけれど、もう帰っては来ないのだと、部屋の一角に備えられた杏寿郎さんの遺品に徐々に実感させられていった。
暖かく包み込んでくれる人はもういない。笑顔を向けて、頭を撫でてくれるその温もりはもうない。話しかけても、返事が返ってくることはない。
私は、あの人を幸せにすることができていない。まだ、全然、これからだったのに。
「っ、……」
「名前さん、大丈夫ですか」
語りかけても返事がない杏寿郎さんの部屋を出て、目眩と吐き気に襲われた。壁にもたれ掛かる私にちょうど通りかかった千寿郎くんが歩み寄ってきてくれる。顔色は、いいわけはない。お互いいっぱいいっぱいであるはずなのに、私を心配してくれるその優しさに胸を打たれた。
「休んでください。家のことは俺が」
千寿郎くんだって、最愛の兄を亡くし、打ちひしがれているというのに。私は、何もできなかった。沢山助けられて、優しくしてもらったのに、杏寿郎さんに何も返せていない。何も返せていないままいなくなってしまうなんて、信じたくなかった。
心配そうに私を見据える千寿郎くんに両手を伸ばし、抱き締めた。
「ごめん。ごめんね、」
「名前さん、」
「私、きっと、あの人の為にここへきたのにっ」
「……っ、」
「何もっ、何もできなかったっ、ぁ、うっ、あぁあ……っ」
堪えていた、否、考えないようにしていたことが溢れ出し、訃報を初めて耳にした時のように涙が止まらなかった。
泣いたって喚いたって、杏寿郎さんがいないことは何も変わらないのに。いつまでもいつまでも、こうしていたって仕方のないことなのに。どんなに辛くても、無情に時は流れていく。
杏寿郎さんがいなくなってしまった今、私はこの世界で何をしたらいいのだろうと、ここへ初めてきた時のようにぼんやりと過ごしていた。
神様が、私をこの時代へ連れてきた理由は、こんな最期を経験させる為だったのだろうかと、それは杏寿郎さんの為になったのだろうかと、わからないままだった。
まだそれほど月日は経っていないというのに、もう随分と杏寿郎さんがいなくなってから長い時間が訪れているように感じている。いつもと変わらず、ただ、杏寿郎さんがいない毎日を過ごしていた。
町へ出向いていた帰り、屋敷の前で私が目にしたのは、箱を背負っている隊士の人を見送っている千寿郎くんだった。
「千寿郎くん」
「名前さん」
「お客様?」
「はい、兄の最期に立ち会った方で、言伝を」
今日まで千寿郎くんはずっと私と同じように過ごしていたと思っていたけれど、幾らかいい方向に落ち着いているように見えた。私といえば未だに抜け殻で、時折襲う吐き気に自分の弱さを知らしめられているのに。あの、市松模様の羽織の子と何かあったのだろうか。
「言伝?」
「『君がいたから、俺は幸せだった』」
「……」
「兄が、妻に遺した言葉だそうです」
ああ、もう、枯れるほど泣いたというのに。もう涙はでないと思っていたのに。
きっと、私のことを『妻』と杏寿郎さんが話してくれたのは、それが最初で最期だ。もっと、こんな形ではなく沢山の人に紹介してほしかった。私も、自慢の夫ですと胸を張って、本人の前で言いたかった。
目の前で言伝を告げた千寿郎くんがぼやけていく。私は、杏寿郎さんの言う通り、本当に幸せにできたのだろうか。
最期の最期まで、優しくて暖かい人だ。
屋敷の庭に植えられた桜は、もう今は満開となっていた。
日が落ちて、暗闇の中でもその艶やかさに周りがほんの少し明るくなっている。本当に、杏寿郎さんを彷彿させる花だと思った。
ひらひらと舞い散る桜の花弁が錦鯉の泳ぐ池へと浮かぶ。この桜を一緒に見るはずだった。まさか、ここで生涯共にしたいと誓ってすぐに、いなくなってしまうなんて。
何をするにも上の空で、桜の隙間から見える星を眺めていた。不意に後ろから聞こえた音に振り返ると、千寿郎くんが縁側の戸を閉めている。私が外に出ているから、しなくてもいいのに。
「千寿郎くん」
「……」
「千寿郎くん、私閉めておくよ」
「……」
ガタガタ、と、据わりの悪い戸を動かし片側を閉める。声が聞こえていないのだろうかと思ったけど、声量を上げて呼んでも千寿郎くんは見向きもしない。
咄嗟に、怖くなってその戸が閉まりきる前に早足で歩み寄った。
「千寿郎くん、ねえ、……っ」
まるで、私が存在をしていないかのような素振りだった。
ここへ来た時と同じようで違う恐怖を感じながら、伸ばした手は千寿郎くんの肩を通り抜けた。
触れることさえできなかった。うっすら透けている自分の手に、この世界から私は消えてしまうのだと悟った。
「嫌だ……待って、嫌、このまま私、消えたくないっ、」
私の懇願なんて、今の千寿郎くんには聞こえていなかった。ガタガタ、と、反対側の戸も閉まり、取り残された。
閉められた戸に触れた手は変わらず透けて、木の板が見えている。
「……なんで、……なかったことになんてされたくない、待ってよ……!」
全部、きっと今までこの時代で私にあったことすべてが、なかったことになっている。そんなの嫌だった。杏寿郎さんが、私といて幸せだったと思ってくれていることすらなかったことにされてしまう。
だったら私は、何の為にここへ来たのか、役に立てなかったから帰るのか、悔しくて堪らなかった。
「杏寿郎さん……」
崩れるようにその場に蹲り膝を抱えた。
消えたくない、嫌だ、杏寿郎さんがいなくても私は杏寿郎さんの妻であることに変わりはない。それなのに、次に顔を上げた時には、桜も綺麗な星空も見当たらなかった。